9月10日 日本二百五福者殉教者

第一朗読  一 コリントの信徒への手紙  5:1-8
(皆さん、)現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。

福音朗読  ルカによる福音書 6:6-11
(ある)安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。

祈りのヒント
この場面を思い浮かべてみましょう。
イエスがおられ、右手が萎えた人がおられる。そして律法学者やファリサイ派がその場におり、更にイエスの話を聞いていた人々がいたでしょう。
イエスはそのような状況の中で、右手の萎えた人に直接声をかけます。
今まで汚れた者として人々から思われ、声もかけてもらえなかった人に、イエスは声をかけます。これまでの常識を覆す行動です。
しかも、安息日には働いてはいけない、という常識を更に破って、癒されます。
萎えた人にとって、今何が必要であるか見抜くイエスの鋭さ、そして優しさです。
イエスは今のわたしを見て、どのように言葉をかけてくださるでしょうか。
どのように次に向かう招きをなさるでしょうか。
耳をそばだて、イエスの呼びかけに気づく一日にしていきましょう。
(毎日のみことば 2018-09-10)

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