9月8日 年間第23主日

第一朗読  知恵の書 9:13-18
「神の計画を知りうる者がいるでしょうか。主の御旨を悟りうる者がいるでしょうか。死すべき人間の考えは浅はかで、わたしたちの思いは不確かです。朽ちるべき体は魂の重荷となり、地上の幕屋が、悩む心を圧迫します。地上のことでさえかろうじて推し量り、手中にあることさえ見いだすのに苦労するなら、まして天上のことをだれが探り出せましょう。あなたが知恵をお与えにならなかったなら、天の高みから聖なる霊を遣わされなかったなら、だれが御旨を知ることができたでしょうか。こうして地に住む人間の道はまっすぐにされ、人はあなたの望まれることを学ぶようになり、知恵によって救われたのです。」

第二朗読  フィレモンへの手紙 9b-10、12-17
(愛する者よ、)年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。
だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。

福音朗読  ルカによる福音書 14:25-33
(そのとき、)大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

祈りのヒント
今日の福音で、イエスはご自分についてくる大勢の人たちを見て、ご自分の弟子たる者の心構えを人々に示されます。心構えのみならずイエスの弟子であることの幸いについて示されているように感じます。イエスの言葉を何度か読み味わい祈っていると、イエスが十字架の苦難をお受けになる前夜、弟子たちと最後の食事を共にされた時に語られ、また行いによって示されたことが思い出されました。

“主であり師であるわたしがあなた方の足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗い合わなければならない。”(ヨハネ13、14)

イエスについていく者が、イエスの奇跡の力に心惹かれてついていくというのではなく、イエスに似た者となるように、イエスと親しくなりイエスにより頼みイエスと共に歩む者になるようにと人々を招かれるイエスの姿が心に浮かびます。

自分の命であろうとも憎まないなら・・自分の十字架を背負ってついてくる者でなければ・・
自分の持ち物を一切捨てないならば、わたしの弟子ではない、とイエスは言われます。
どうしてでしょうか。

赦しと愛を私たちが生きるために、まことに神の子となるために、とっても大事なことなのだからです。

自分の足りなさや貧しさを見つめ、他の人の前に謙ってその人の足を洗う・・・。イエスは十字架を担う前にそうなさいました。
神の愛が、すべての人に届くようにと十字架を担われました。まったき貧しさの中で。御父への完全なる信頼の中で。
このイエスの歩みについていく者が「わたしの弟子だ」と。そのような心をもって歩み続ける者の足跡を振り返ると・・・
イエスの弟子たる者の幸いの花がその歩みの道に咲いているでしょう。
優しい花が。

(日曜日のみことば 2019-09-08)

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