9月16日 年間第24主日

第一朗読  イザヤ書 50:5-9a

主なる神はわたしの耳を開かれた。
わたしは逆らわず、退かなかった。
打とうとする者には背中をまかせ
ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。
顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。
主なる神が助けてくださるから
わたしはそれを嘲りとは思わない。
わたしは顔を硬い石のようにする。
わたしは知っている
わたしが辱められることはない、と。
わたしの正しさを認める方は近くいます。
誰がわたしと共に争ってくれるのか われわれは共に立とう。
誰がわたしを訴えるのか わたしに向かって来るがよい。
見よ、主なる神が助けてくださる。
誰がわたしを罪に定めえよう。

第二朗読  ヤコブの手紙 2:14-18
わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。

福音朗読  マルコによる福音書 8:27-35
(そのとき、)イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。

それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」

祈りのヒント
サタン。――神に逆らう者。つまり、神のわざを阻止する者。ペトロは、誰よりも早くイエスの本質を言い当てました。しかし、その直後に、「サタン、引き下がれ」という厳しい叱責をイエスから受け取りました。私たちは、どうでしょうか。果たして、今日、主イエスから何と呼ばれるのでしょうか。

「あなたは、神のおもいを理解せず、人間的な解決をはかろうとしている」。――私も、キリスト者として何らかの善行を実践しようとしているときに、まるで、イエスの声が耳元に響いてくるかのような気持ちにさせられます。そうです。私たちは、ときとして、偽善的に生きてしまう場合があり得るのです。神のいつくしみを生きるよりも、むしろ自分にとって都合のよい解釈を加えて満足してしまうことが、この日常生活のなかでは、圧倒的に多いのです。

ちょうど、ペトロのように、表面上は、かっこうのよい言葉を口にしたとしても、実際は、真実を理解していないという哀しい現実が、キリスト者のふるまいのなかにも、たしかにあるのでしょう。第二朗読でも強調されているように、自分勝手な理屈をつけて、何とか自己正当化を試みる両極端の姿勢(「実践の伴わない信仰主義」と「信仰の伴わない実践主義」)におちいる場合が、キリスト者ひとりひとりにも、たしかにあるのです。どうしても、神のおもいよりも自分の気持ちを優先してしまい、神のいつくしみ深いおもいを理解して生き抜くことができない私。自分では、神に従っているつもりでも、全然別の方向へと逸れてしまうばかり。神のおもいをねじまげてしまうときに、私は神から遠ざかっていくばかりで、神に逆らうサタンのような歩みを、おのずとしているのでしょう。

しかし、第一朗読のなかでも強調されているように、「主なる神が助けてくださる」ので、希望が出てきます。自分の狭い了見から脱して、自分の弱さをありのままに認め、主イエスに信頼して助けを叫ぶこと。――そこから、はじまります。「自分の十字架」を背負うだけで、じゅうぶんなのです。つまり、自分のどうにもならないほどの弱さを、すなおに認めて、主に助けを求めて歩みなおすことが、「自分の」十字架を背負うことなのです。主イエスが、あらゆる人の罪の重みを一身に背負ってくださるのですから、私は「自分の」弱さから逃げないで、ありのままに主イエスのふところに飛び込めば、それでじゅうぶんなのです。主イエスは、私たちに必要以上の重荷を負わせることはないのですから。むしろ、黙ってすべてを肩代わりして助けてくださるのが主のいつくしみ深いおもいのありがたみなのです。だからこそ、常に、主に感謝したいです。

(日曜日のみことば 2018-09-16)

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