9月20日 年間第25主日

第一朗読  イザヤ書 55:6-9
主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ 悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば豊かに赦してくださる。わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。

第二朗読  フィリピの信徒への手紙 1:20c-1:24、27a
(皆さん、)生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。
ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。

福音朗読  マタイによる福音書 20:1-16
(そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。)「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

祈りのヒント
福音朗読箇所において、「友よ」と呼びかける神。神は常に相手を「友」として迎えます。しかし、人間は常に他人と自分とを比べて、ねたみにさいなまれています。自分が、神から「友」として親しく認められているということに気づかない人間のおろかさ。つまり、神の気前のよさをねたむ人間の浅はかさ。相手の思いに気づかないことほど、哀しいことはないでしょう。しかし、私たちは、たいていの場合、にぶいまま生きてしまっています。

第二朗読における、「私にとって、生きるとはキリストである」というパウロによる断言は、あまりにも激しい愛情に満たされています。キリストをあかしするためだけに生きているパウロの熱情。もはや、パウロはキリストを体現するためだけに生きています。自分の自我をはるかに凌駕するキリストの愛情の深さを、パウロはひたすら実感して、絶えずキリストと重なるようにして生きています。

第一朗読における、「私の思い」という言葉に集約されている神の本音。相手を活かし、相手を支える神の深い愛情に満たされたおもい。そのおもいに気づかない人間のおろかさ。神の思いに気づいて、その思いの内に向かうこと。立ち帰ること。人間にとって、神の思いの愛情深さに気づいて、そのまっただなかにゆだねきることは最も大切な道行きなのではないでしょうか。

神の思いを明確に体現して生きているイエス・キリストを信じて、その態度を自分の身において生きるパウロは、キリストとのつながりによって神とも深く出会います。神の思いに気づかない労働者たちの浅ましさとは真逆の姿勢をパウロが選び取っています。しかし、キリストとともに三年間の旅をして協働していた十二人の弟子たちはおたがいに比較し合ってあせったりねたみをいだいたり、自分のことしか見えていない状態にとどまっていました。そのようなおろかな弟子たちに対してキリストは、たとえ話をとおしてほんとうの生き方に気づかせようとしました。

今日の三つの朗読をとおして、私たちはパウロのように神の思いに気づいて、神から遣わされたキリストと志をひとつにして生きるようにうながされます。人間同士のおろかな比較し合いに埋没するのではなく、むしろまなざしを天に向かって高くあげて神の深い愛情の思いに気づいてゆけますように。

(日曜日のみことば 2020-09-20)

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