9月21日 年間第25主日

第一朗読  アモスの預言 8:4-7
このことを聞け。貧しい者を踏みつけ、苦しむ農民を押さえつける者たちよ。お前たちは言う。「新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう。」
主はヤコブの誇りにかけて誓われる。「わたしは、彼らが行ったすべてのことをいつまでも忘れない。」

第二朗読  テモテへの手紙 一 2:1-8
(愛する者よ、)まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。
だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。

福音朗読  ルカによる福音 16:1-13
(そのとき、イエスは、弟子たちに言われた。)「《ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。》
ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

祈りのヒント
今日の福音朗読箇所では、不正を働く管理人が登場します。この抜け目ない管理人のたとえ話を、イエス・キリストが弟子たちに語っています。マタイ福音書の共通の箇所を読むと、イエス・キリストは不正を働く管理人の動きかたをほめていますので、つまり「機転をきかせる」という人間の努力の仕方を認めています。しかし、ルカ福音書では「忠実さ」のほうに強調点があります。物事にこだわって、自分のできることをひたすら最大限に駆使して生き残ろうとする必死さを、弟子たちはいまだ備えていなかったからです。「忠実さ」がなければ神への信仰は深まりません。
第一朗読と第二朗読は共通して神の姿勢を描きます。神は、人間が追い詰められてつぶされる悲惨な状況を見過ごさないで、必死に救おうとします。神による寛大な受容の慈愛深さが強調されているのです。しかし、人間は他者を利用して自分だけ得をしようともくろみます。相手をつぶして利益をせしめるのが人間の姿勢です。神への信頼を深めて忠実に神の慈愛深さに見習う信仰者は、他者を決してつぶしません。神の慈愛深さに習うのか、それとも人間的な都合で富を独占して他者をつぶすのか、私たちは常に問われています。

ところで、現代人はお金を信用して生きています。お金にこだわるという独特な信仰を抱きます。お金を崇拝して、追い求める人が多いです。まるで「お金教」です。ほとんどの人が特定の宗教を信じていないと述べる日本では、しかし「お金教」を信じている人が意外と多いです。お金さえあれば、自分の望みが何でもかなう、という性急な幻想をほとんどの人が抱きます。それゆえ、現代人は「お金教」の奴隷として生きています。
逃げるチャンスがあるのに、ますます好んで奴隷でいようとする人が多いのが悲しい現実です。お金がないと暮らせないですし、自分の自由が得られないからです。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)というイエス・キリストによる皮肉は妙に納得できます。今日の、ルカによる福音書も、マタイによる福音書と共通する呼びかけをしています。
人間は誰かに頼らないと生きてゆけません。究極的には、お金に頼るのか、神に頼るのか、人間は一瞬一瞬、二者択一を迫られて生きています。その際、まず先に神に頼ってから、その方針に沿ってお金を適切に使えばよいのかもしれません。まず生き方の基礎を神にして、その信念をうまく活かすためにお金を利用するわけです。皆さんは、どのように考えますか。

(日曜日のみことば 2025-09-21)

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