9月22日 年間第25主日

第一朗読  知恵の書 2:12、17-20
(神に逆らうものは言う。)「神に従う人は邪魔だから、だまして陥れよう。
我々のすることに反対し、律法に背くといって我々をとがめ 教訓に反するといって非難するのだから。
彼の言葉が真実かどうか見てやろう。生涯の終わりに何が起こるかを確かめよう。
本当に彼が神の子なら、助けてもらえるはずだ。
敵の手から救い出されるはずだ。暴力と責め苦を加えて彼を試してみよう。
その寛容ぶりを知るために、悪への忍耐ぶりを試みるために。
彼を不名誉な死に追いやろう。彼の言葉どおりなら、神の助けがあるはずだ。」

第二朗読  ヤコブの手紙 3:16-4:3
(愛する皆さん、)ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあ(ります。)上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。
何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。

福音朗読  マルコによる福音書 9:30-37
(そのとき、イエスと弟子たちは)ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

祈りのヒント
 イエスはご自分の受難と死、復活を再び弟子たちに話されます。そのあと「誰がいちばん偉いか」を議論する弟子たち。イエスの孤独、悲しみが伝わってきます。それにもかかわらず、弟子たちをイエスはご自分の場所に呼び寄せられます。そこにはすでに、自己中心的で、無力で弱い弟子たちを受け入れ、慈しみを注がれる「すべての人に仕える」イエスの姿が在ると感じます。 「一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて」という場面を心の目で眺め祈ってみました。弟子たちの真ん中で、イエスが無力で弱い立場に置かれた人々の象徴とされる子供を、天の御父に向かって高く抱き上げる姿が見えました。そのイエスを見つめていると、「この方は神の独り子でありながら、みじめな十字架の死を受け入れられたのだ」「この方こそ、最も無力で弱い立場に置かれた方なのだ」という思いがわきあがってきました。しかし自分の姿を振り返ってみると、そのような「子供」とは、ほど遠い自分がいました。自分の力に頼り、自分の考えを中心に世間を見て不満や批判を繰り返す私。身体が悲しみでいっぱいになりました。しばらくこの感覚から逃げることなく、静かにとどまってみました。すると、「神様に頼るしかない」「聖霊の恵みを願おう」という光が見えてきました。そのあと「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」というみ言葉を味わってみると、私 の外側に「子供」を探すのではなく、まず私自身の内に「子供」を育てることが先ではないか、という気づきがありました。それは、まず自分の傲慢さ、罪深さに気づき回心すること。そして、神の愛に信頼して無力さ、弱さを受け入れ生きること。そこに父と子と聖霊は来てくださるのだ、ということです。無力で弱い私たちが、父と子と聖霊と共に働くとき、「すべての人に仕える者」になれるのかもしれない、という希望がわいてきました。
(日曜日のみことば 2024-09-22)

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