日曜日のみことば
9月24日 年間第25主日
第一朗読 イザヤ書 55:6-9
主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ 悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば豊かに赦してくださる。わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。
第二朗読 フィリピの信徒への手紙 1:20c-24、27a
(皆さん、)生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。
ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。
福音朗読 マタイによる福音書 20:1-16
(そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。)「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
祈りのヒント |
「この人たちは1時間、この人たちは3時間働いて、最初から働いていた人たちはきっと8時間以上働いていたんだ」と考えていると、もう一人の私がそんな私を静かに見つめていることに気がつきました。その瞬間、御言葉を自分の価値観で読んでいることにも気がつきました。 私は聖書の前で瞑想し、心が静まるのを待ちました。そして、深い静まりの中でゆっくり御言葉を味わいました。すると、働く者を雇うために夜明けに自ら出かけていく主人、最初に雇われ不平を言う人を「友よ」と呼ぶ主人の慈しみと愛が心に満ちてきました。神は私たちより先に私たちを探し求めてくださる。共に働く仲間を蔑み、自己中心的な生き方を主張する私たちを罰するどころか、「友」と呼んでくださる。深い静まりの中で、私の体にも神の慈しみと愛が満ちてきます。この愛に応えたい。と心が動いたとき、「立っている」という御言葉が心に留まりました。いくら待っても雇ってくれる人が現れないなら、座りこんでしまうのではないか。ネガティブな感情に身も心も支配されてしまうのではないか。しかし、彼らは「立っていた」のです。そして神に雇われました。日常生活の中でネガティブな感情や無気力、絶望に陥ることは誰にでもあることです。そのようなとき、沈黙と静けさの中で、もう一人の私が「私」を静かに見つめ祈るとき、そのまなざしは慈しみ深い神のまなざしと重なるような感じがします。そしてその神のまなざしに力づけられ、「立つ」ことができ、絶望のときも神を待つ自分になれるのではないでしょうか。 「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と答える主人。神の時間は、過去、現在、未来と流れていく私たちの時間とは違うようです。全ての人にアガぺの愛を注がれる神、「天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている(イザヤ55:9)」のです。どのような状況にあっても、神の慈しみのまなざしを感じながら、神のアガぺの愛に信頼し希望を持って生きるとき、天の国はそこに実現しているのではないでしょうか。 |
(日曜日のみことば 2023-09-24) |