9月28日 年間第26主日

第一朗読  アモスの預言 6:1a、4-7
(主は言われる。)災いだ、シオンに安住しサマリアの山で安逸をむさぼる者らは。
お前たちは象牙の寝台に横たわり、長いすに寝そべり、羊の群れから小羊を取り、牛舎から子牛を取って宴を開き、
竪琴の音に合わせて歌に興じ、ダビデのように楽器を考え出す。大杯でぶどう酒を飲み最高の香油を身に注ぐ。しかし、ヨセフの破滅に心を痛めることがない。それゆえ、今や彼らは捕囚の列の先頭を行き寝そべって酒宴を楽しむことはなくなる。

第二朗読  テモテへの手紙 一 6:11-16
神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。

福音朗読  ルカによる福音 16:19-31
(そのとき、イエスはファリサイ派の人々に言われた。)「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

祈りのヒント
律法によれば、土地は全て神のものであり(レビ記25:23)、そこから得た富は、真の地主である神にお返しするために貧しい人たちに施すという教えだったようです(申命記15:11、イザヤ58:6−7)。しかしこの金持ちは、神からいただいた富を自分だけのものにし、この世で自己中心的な生活を送りました。門前にいるできものだらけのラザロには、死ぬまで無関心でした。もしかすると「そのうち施そう」と思っていたのかもしれません。また、当時のファリサイ人の多くがそうであったように、自分は正しい者だから神の祝福として富を与えられている、と都合よく律法を解釈し、貧しい人たちを見下していたのかもしれません。一方ラザロは、律法を信じ、金持ちからの助けを待ち続けていたのだと思います。イエスは、私たち一人一人が、神からいただいている「富」を惜しまずに隣人を助けるために使うようにと教えられます。
神が与えてくださる「富」とは何だろう、と祈っていると、ある朝混雑する駅で見かけた光景が浮かんできました。ラッシュで込み合うホーム、白杖を持った人がうろうろしています。どっちに行けばよいのかわからなくなったようです。その時、一人の女性がその人に声をかけました。そしてその人の手をとり、彼女が向かっていた方向とは逆の方へ歩いていきました。この女性が神からいただいた富は、「助けが必要だ」という心の動きをすぐに行動に移せる慈しみと勇気ではないか。それに朝の貴重な時間を隣人のために捧げている、と気づきました。助け手とそれを受け取った人の間には、天の国が実現し、神の富を受け取った人は、次の隣人へと神の富を渡していき、天の国は広がっていくのだと希望の道が観えたような気がしました。
神からの富(恵み)を、自分だけのものにしたり、自分の都合のままに使ってはいないでしょうか。一人一人がいただいている神からの富を、隣人のために、惜しみなく使い、神の愛をつなげていく者となれますように。
(日曜日のみことば 2025-09-28)

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