9月29日 年間第26主日

第一朗読  民数記 11:25-29
(その日、)主は雲のうちにあって降り、モーセに語られ、モーセに授けられている霊の一部を取って、七十人の長老にも授けられた。霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言状態になったが、続くことはなかった。
宿営に残っていた人が二人あった。一人はエルダド、もう一人はメダドといい、長老の中に加えられていたが、まだ幕屋には出かけていなかった。霊が彼らの上にもとどまり、彼らは宿営で預言状態になった。一人の若者がモーセのもとに走って行き、エルダドとメダドが宿営で預言状態になっていると告げた。若いころからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは、「わが主モーセよ、やめさせてください」と言った。モーセは彼に言った。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」

第二朗読  ヤコブの手紙 5:1-6
富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。

福音朗読  マルコによる福音書 9:38-43、45、47-48
(そのとき、)ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。
わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。」

祈りのヒント
「最近、沈黙するのがむずかしい」。
こんなふうにわたしは感じますが、皆さまはいかがでしょうか。
日中、起きている時、「視聴覚」とはよく言ったもので、「視る」「聴く」で「覚醒」している状態。ほとんどが「視聴」の時間で、「見ざる、聴かざる、言わざる」の時間がないのです。
こんな日中の中で、何も見ない、何も聴かないという時間の中に入る、つまり、「沈黙」の中に入ると、時折、恐怖にも似た特殊な感覚を覚えます。寄りかかる柱や、背もたれ、壁のようなものが何もなくなってしまった状態です。
「マインドフルネス」と言ってもてはやされ、「20秒、目を閉じましょう」と言って、呼吸に注目する——。現代人はそのくらいの「時間とも言えない一瞬」でさえも、沈黙が難しくなってしまっているわけですから、かなりの危機と言えます。
30分、沈黙の中に入ってみましょう。失うものはなにもないのです。
安心して、神のみ手の沈黙に。
今日の福音では、「つまずかせる者」について語られています。「わたしを信じるこれらの小さな者」、この人たちをつまずかせてはならないと、イエスは弟子たちを諭すのです。
わたしたちは実にこの微妙な人間関係の中に置かれています。
弟子たちは悪気がないのです。むしろ、彼らの正義感から、「イエスの名前を使って悪霊を追い出している者」たちを糾弾します。「むやみやたらに聖なるみ名を用いるべきではない、新参者が!」とでも言いたいのでしょう。しかし、イエスからすれば、弟子たちの主張するその正義感は、「小さな者」をつまずかせることになります。そして、そのような人びとをつまずかせるくらいなら、「一つの目になっても神の国に入る方がよい」とまで言われます。
自分の正義が相手をつまずかせる——。もし、そうであるなら、「大きな石臼に首を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」。この境地に至るためには、自分の正義に対して、徹底的に距離を取る必要があります。自分の主張、自分の理想、自分の意見、自分の判断、自分の正しさ…… あらゆる自分の中心性から、解放される必要があるのです。
沈黙が難しい、などと言っている状態では、イエスの諭しなど到底わからないでしょう。自戒をこめて、わたし自身、やっていること、言っていることを沈黙の中で手放してみたいと思います。わたし自身が神のみ手の中に置かれて、何も視なくてよい、何も聴かなくてよいという沈黙の中に……入っていく。9月の終わりの聖なる日曜日、祈る時間といたしましょう。
(日曜日のみことば 2024-09-29)

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