9月3日 年間第22主日

第一朗読  エレミヤ書 20:7-9
主よ、あなたがわたしを惑わし わたしは惑わされて あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。
わたしは一日中、笑い者にされ人が皆、わたしを嘲ります。
わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられません。
主の言葉のゆえに、わたしは一日中恥とそしりを受けねばなりません。
主の名を口にすまい もうその名によって語るまい、と思っても
主の言葉は、わたしの心の中 骨の中に閉じ込められて 火のように燃え上がります。
押さえつけておこうとして わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。

第二朗読  ローマの信徒への手紙 12:1-2
兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

福音朗読  マタイによる福音書 16:21-27
(そのとき、)イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」

祈りのヒント
ディズニー映画の『プーと大人になった僕』の中に「『何もしない』は、最高の何かにつながる」という言葉を大人になったクリストファー・ロビンにプーが言う場面があります。実は、この言葉は、かつてロビンが子どもだった頃、プーに伝えた言葉でした。プーは、ずっとその言葉を守りながら生きてきました。
しかし、大人になったロビンは仕事に追われ、週末に予定していた家族との大切な時間さえも犠牲にして書類を作成します。そんなとき、プーが現れ、ロビンに「僕は、『何もしない』を毎日続けているよ」というのです。
きょうのみことばの中に「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という言葉をイエスが弟子たちに伝えます。この中の【自分を捨て】という言葉は、プーが言った【何もしない】ということではないでしょうか。
私たちは、ついつい「自分がなんとかしないと」と何でも自分中心に物事を進めてしまう傾きがあります。仕事や家事や子育てや、教会での活動で「私が何とかしないと」「私が頑張らないと」など気を張ってしまいます。しかし、そのような気持ちで続けていては、どうしても頑張りすぎて、かえって疲れてしまうことがあります。
「自分を捨てる」というのは、「私が何とかしないと」という気持ちを一旦横において、イエスに委ねるということではないでしょうか。たとえば、隣の人に任せてみる、「誰か助けて」とお願いしてみるとき、きっと、「私が思ってもみなかった奇跡」が起こるかもしれません。それは、イエスが【私】に代わってしてくださっているからです。
イエスは、ペトロに「あなたはわたしの邪魔をする者」と言われます。この【邪魔】という言葉は、イエスの行く手を阻むということのようです。ペトロは、知らない間にイエスの前に立っていたのでした。私たちは、イエスに従う者であって、イエスの前に進んではいけないのです。
今一度、私たちの生活を振り返り、イエスにお委ねして「何もしない」という生活を始めてみてはいかがでしょうか。
(日曜日のみことば 2023-09-03)

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