9月4日 年間第23主日

第一朗読  知恵の書 9:13-18
「神の計画を知りうる者がいるでしょうか。主の御旨を悟りうる者がいるでしょうか。
死すべき人間の考えは浅はかで、わたしたちの思いは不確かです。
朽ちるべき体は魂の重荷となり、地上の幕屋が、悩む心を圧迫します。地上のことでさえかろうじて推し量り、
手中にあることさえ見いだすのに苦労するなら、まして天上のことをだれが探り出せましょう。
あなたが知恵をお与えにならなかったなら、天の高みから聖なる霊を遣わされなかったなら、だれが御旨を知ることができたでしょうか。こうして地に住む人間の道はまっすぐにされ、人はあなたの望まれることを学ぶようになり、知恵によって救われたのです。」

第二朗読  フィレモンへの手紙 9b-10、12-17
(愛する者よ、)年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。
だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。

福音朗読  ルカによる福音書 14:25-33
(そのとき、)大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

祈りのヒント
 『鬼滅の刃』の主人公、竈門炭治郎が鬼と戦うときに「全集中 壱の方 水面斬り」という言葉を使って技を出します。彼が【全集中】と言って鬼と戦うときには、目の前の鬼を倒すことだけに集中し、他のことは一切考えていません。彼の言葉は、もしかしたら私たちの歩みの中でも共通することなのではないでしょうか。
きょうのみことばは、イエスがエルサレムで御父のみ旨である「死と受難」へ向かう旅の途中で、ご自分について来た人々に「弟子になるために何が必要か」ということを伝える場面です。
イエスは、「……わたしの弟子ではありえない」という言葉を繰り返し使われます。イエスについて来た人たちが、ご自分の弟子として生活するためには、「家族、そして自分の命さえも憎まなければならない」こと、「自分の十字架を背負わなければならない」こと、そして「自分の持ち物を一切捨てなければならない」という3つの条件を示されています。
私たちは、「……自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」という言葉を聞くとき、いつも「アガペの愛」を人々に伝えておられるイエスの言葉だとは信じられない、と思ってしまいます。もちろん、イエスは、家族や自分の命を「憎む」ということを言われたのではなく、福音を伝えるためには、たとえ家族であっても、また自分の命でさえも犠牲にしなければならない、と言われているのではないでしょうか。
さらに、イエスは「塔を立てる人」「戦(いくさ)をする王」のたとえを話されます。このたとえ話の中に「まず腰をすえて考えてみないだろうか」という言葉を共通して使われています。この言葉は、「塔を建てる」こと、「戦(いくさ)をする」ことだけに【集中する】という意味もあるようです。ですから、イエスは、ご自分の弟子になるためには、自分の持ち物(宣教に関係がないもの)を一切捨ててついて来なさいと言われているのではないでしょうか。
私の歩みはどうなのでしょうか。今一度、振り返ってみることができたらいいですね。
(日曜日のみことば 2022-09-04)

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