9月7日 年間第22金曜日

第一朗読  一 コリントの信徒への手紙 4:1-5
(皆さん、)人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。

福音朗読  ルカによる福音書 5:33-39
(そのとき、ファリサイ派の人々や、律法学者たちは)イエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」そして、イエスはたとえを話された。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」

祈りのヒント
断食する目的は決して人にみせるためではなく、神の祝福を受ける備えをするためです。ヨハネとファリサイ派の弟子たちは断食することが正しいと考え、それを人々に押しつけます。自分たちと同じように生きていない人々は、倫理的に正しいとは考えないのです。
時々、私たちもそのような態度をとってしまいます。 私たちは自分自身を道徳的であるとおもい、自分の枠を使って他人を裁くことさえします。 そのような時、イエスの言葉を受け入れ、心の革袋を柔軟にする必要があるでしょう。
(毎日のみことば 2018-09-07)

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