9月9日 年間第23月曜日

第一朗読  コロサイの信徒への手紙 1:24-2:3
(皆さん、)今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。
わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。

福音朗読  ルカによる福音書 6:6-11
(ある)安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。

祈りのヒント
手の萎えた人は隅で小さくなって座っていたのかもしれない。彼の気持ちになってみたい。
毎日、小さい存在としてそこにいた。しかしイエスはまず「立って」と言う。
立つことによって目立ってしまう。できるだけ目立たないようにこれまで過ごしてきたのに、今声をかけられたことで目立ってしまう。目立ちたくないという思いが一瞬起こる。
しかし、彼は立つ。立つだけではなく、イエスは「真ん中に出なさい」と言われる。
もう既に目立っているのに、さらに中心に来い、と。十分目立っていることに半ばやけになりならが、彼は真ん中に来る。
この人の回心は手が癒えた時ではないだろうか。自分の気持ちを思うと逃げ出したくなるような状況であるのに、一歩進んだ。
その行為に対して、癒しという出来事が起こった。この時、一人の回心が起こったのではないだろうか。
律法学者たちが怒り狂うのは、癒すという出来事と同時に、イエスのもとへまた一人従う者が現れたことの焦りもあったのかもしれない。
人間の思いとそうではない偉大な思いの違いはここにあるような気がする。
(毎日のみことば 2019-09-09)

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