こころの散歩

人生の時

人生の時

 だらしなく、うす穢(よご)れた我々の日常生活にも「しーん」とした何かが入りこんでくる時がある。その時を私は「人生の時」と呼びたい。それは「生活の時間」にさしこんできた「人生の時間」なのだ。
 その人生の時間は人それぞれによって違う。
 ある人にとってはそれは愛する者と死別した時である。
 別の人にとってはそれは愛する者から棄てられた時である。
 他の人にとってはそれは自分の病気が治らぬものと知った時である。
 私は思いつくままに、我々の日常生活にとって不幸にみえる例を三つあげたが、それは「しーん」とした人生の時が多くの場合、苦しみと共に訪れるからである。
 むかし私は神というものがあるなら神は私たち人間になぜ苦しみを与えたのだろうかとよく考えた。
 しかしこの年齢になって、私は生活のなかに「しーん」とした人生の時をもたらすのは幸福や悦びより苦悩のほうが多いことに気がついたようである。
 我々が幸せな時には、自分の幸せに酔っていて、他の存在を忘れがちである。
 しかしむかし病気をして苦しかった時、私はベッドから窓の外に見える一本の橡(とち)の樹と話したものだ。その話は私が死んでも彼が生き残るだろうとわかった時からはじまった。

 その頃は樹も鳥も私に話しかけてくれた。私たちの間には幸せだった時にはない交流が成立していた。しかし病気が恢復してみると会話は少しずつ消えていった。私は自分以外のこれらの存在を忘れがちになっていったのだ。
 日常生活のなかに「しーん」とした人生を挿入するのは苦しみである。そういう苦しみを多少でも持っている人間には、その多少に応じて、他の「しーん」としたもの、絵でも踊りでも音楽でもわかるのだろう。なぜならそれらは我々を酔わせるものではなく、ふたたび心を覚醒させるものなのだから。

遠藤 周作 著 『ひとりを愛し続ける本』
  
写真: マイクロソフト・デザイン・ギャラリー・ライブ
  

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