2007年3月  1.いのちの恵み
 3月ともなると、身体を包む風も陽の光も柔らかで暖かく、どこか懐かしさにも似た思いに誘われます。食卓を彩る一つひとつの食べ物も、それぞれの味と香りを伝えながら、いのちの息づかいを感じさせてくれるかのようです。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻にいのちの息を吹きいれられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2・7)。このいのちの息に促され、その息づかいと一つになるとき、改めて自分が「神の似姿」(創世記1・26-27)として造られていることを実感します。
 いのちと言っても、それはただ単に、生物学的な意味でのそれではなく、一人の人間の生活や生きがいであったり、神との関係であったり、さらには永遠のいのちまでも含まれます。いのちの確からしさ――それを感じるのは、決して抽象的な理論の中ではなく、日々の生活の中で自然や人と出会い、感動や喜びあるいは不安や悲しみを体験するときでしょう。このようにいのちは、ただ単に自分の中だけに見出すものではなく、周囲のさまざまなものとの関係において体験するものです。
 「いのちの神」(詩編42・3、エレミア10・10、ヨハネ5・26)――これは聖書の根本的メッセージです。その神の似姿として造られた人間は、それゆえいのちそのものへと招かれ、それに与ることに生きる意義を見出します(知恵1・13-14)。しかし私たちが生きているこの世界では、至る所でいのちが脅かされ、傷つけられ、また奪われています。それは人間が生まれる前から(中絶)、生きているときにも(自殺、他殺、死刑)、そして死に直面するときまで(安楽死)、事情は変わりません。
 私たちは確かにちりから造られていますが、単なるちりではありません。神に愛されその霊を注がれているちりです。母の胎に造られる前から、私たちは神によって知られ聖別されています(エレミア1・5参照)。それゆえ神の目に、私たちの価は高く貴いと言われます(イザヤ43・4参照)。いのちの神の心遣い、それが恵みです。「わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたを わたしの手のひらに刻みつける」(イザヤ49・15-16)――そう語られる神に、私たちはどう応えましょうか。
写真: 片柳 弘史