2007年3月  2.いのちのことば
 ある人がどういう人であるかを知りたいとき、その人がどういうことばを、どのような状況で、どのように語るかを見れば、たいてい分かります。「人の口は、心からあふれ出ることを語る」(ルカ6・45)。良いことばであっても悪いことばであっても、もし心の中になければ、それが口をついて出てくることはないでしょう。何気ないことばが人を慰め励ますこともあれば、人を傷つけ貶めることもあります。なぜならことばは生きており、力があるからです。ですから自分の心の中にいつも大切なことばを保ち、それを生きるようにしたい、そう願います。

 聖書によれば、この世のすべてのものは、神のことばによって造られました(ヨハネ1・3)。このことばのうちにはいのちがあり、それは人間を照らす光でした(ヨハネ1・4)。見えない神のことばが、一人の人間として私たちに与えられました(ヨハネ1・14)――イエス・キリスト。それは見える形となったいのちのことばです(一ヨハネ1・1)。ここに神の恵みは端的に示され、そこからすべての恵みは溢れ出ます。パウロはそれを次のように語ります――「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ローマ8・32)。

 神が御子イエスを私たちに与えられたのは、彼を信じる者が永遠のいのちに与るためです(ヨハネ3・16、6・40)。イエスはまた自らを、「いのちのパン」(ヨハネ6・35)として示され、その永遠のいのちを溢れるほど与えられます(ヨハネ10・10)。人々に仕えるために人間となられた彼は、身をかがめて私たちの足を洗ってくださいます(ヨハネ13・5)。いのちは仕え合うことによってこそ輝き、そこにおいてこそ私たちの生きる意義・いのちの尊厳はあります。

 いのちの尊厳――このことばの深い意味を静かに味わいたい、そう願います。そもそもなぜいのちは貴いのか、その尊厳の根拠はどこにあるのでしょうか。なぜ私たちは本来、生きることへと向けられているのでしょうか。なぜ私たちは他の人とともに生きることを求めるのでしょうか。これらの問いに答えることは容易でなく、戸惑いを覚えます。そのようなとき、次のペトロのことばは私たちに、確かな勇気と大きな慰めを与えます――「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます」(ヨハネ6・68)。
写真: 中司 伸聡