2007年3月  3.いのちと心
 私たちの現実の姿を静かに眺めて見ると、二つの面に気づかされます。一つは「神の似姿」(創世記1・26-27、知恵2・23)として造られ、「神の子」(一ヨハネ3・1)と呼ばれる、その素晴らしさです。しかしその一方で私たちは、弱く、儚く、過ちやすい存在です。神がいのちの息を私たちに注がれなければ、一瞬たりとも私たちは、存在することも生きることもできず、たちまちもとの塵に戻されてしまいます(詩編90・3、詩編104・29、ヨブ10・9)。これが私たちの現実です。

 このように私たちは、ある意味で分裂しています。それゆえ、自分が自分であるためにも、また真に平和であるためにも、まず自己自身において和解が実現していることが求められます。しかし私たちは、自らの力だけでそれを実現することはできません。この現実を見定めていたパウロは、それゆえ私たちに、キリストにおいて一つとなることを勧めます。なぜなら、キリストこそ私たちの平和であり、私たちを新しい人とし、神との和解に私たちを招かれるからです(エフェソ2・14-16)。

 神との和解は、周囲の人との和解をとおして実現されます。そのために必要とされること、それは互いに赦し合うことです。「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(エフェソ4・32)。赦しと和解――ここにいのちの輝きがあり、神の心が現れています。神は、たとえ悪人であってもその死は喜ばれず、むしろその悪しき道から立ち帰って生きることこそを望まれます(エゼキエル33・11)。この神の心はまた、「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ」(ルカ15・32)と言って、放蕩息子を手放しで迎え入れた父の心と一つのものです。

 イエスがこの世に来られたのは、自分の意志ではなく、自分を遣わされた父の御心を実現するためでした(ヨハネ6・38)。父の御心とは、イエスを見て信じる者が皆永遠のいのちを得、イエスがその人を終わりの日に復活させることでした(ヨハネ6・40)。今改めて、この父の御旨・イエスの心を思い起こしたいと思います。ともすれば、キリスト教を倫理の宗教として捉える人がいますが、そのような理解は間違っているとは言わないまでも、十分なものとは言えないでしょう。イエスの教えは、確かに倫理の大切さを否定はしませんが、姦通の女の話(ヨハネ8・1-11)に表されているように、それを遥かに超えています。
写真: 片柳 弘史