2007年3月  4.いのちの喜び
 いのちには香りがある――春は、特にそのことを感じさせてくれます。散歩の途中で沈丁花の香りに包まれると、なぜか心の中に優しさが生まれてくるような感じがします。凛とした美しさを息を潜めたように映し出す梅の季節が過ぎると、どこか水を含んだような華やかさを残す桜の季節になります。それぞれの花にはそれぞれの香りがあり、それぞれのいのちが息づいています。それらを身体全体で受け止めるとき、何かはずむようないのちの喜びを感じます。

 「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」(マタイ6・28-29)――そうイエスが語られるとき、彼はいのちそのものの輝き、美しさ、そして喜びを謳っているかのようです。慎ましいいのちの輝きは、私たちに静かな感動と喜びを与えてくれます。それは動植物ばかりでなく、人間をとおしても同じことが言えます。自らに与えられたいのちを感謝と喜びのうちに生きるとき、それは周りの人々に、静かではあっても確かな力を与えていきます。

 ときとして私たちは、しかし、自分が生きていることの意味が見えず、戸惑いを覚えることもあります。自分は周りの人々から疎んじられているのではないか、自分なんかいてもいなくてもいいのではないか、噂や中傷の種になっているのではないか・・・・・・。連想は際限なく続きます。誰か一人でもいいから、そのままの自分を受け入れてくれる人はいないだろうか・・・・・・。そのようなとき、イエスのことばが響きます――「思い悩むな」(マタイ6・25-34参照)。私たちの心を悩ませるもの、落胆させるものは、しかし、決して神から来るものではありません。なぜなら、それらは私たちの信仰と希望を覆い隠すものですから。

 「いつも喜んでいなさい」(一テサロニケ5・16)――パウロがそう語るとき、彼はたいてい獄中にいたと言われます。復活されたキリストは、突き動かすかのように彼に語らせます――「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2・20)。このキリストは、まことの「いのち」(ヨハネ1・4、11・25、14・6)として自らを示され、そのいのちの香りは今も私たちを包んでいます。

 沈丁の葉ごもる花も濡れし雨(水原秋桜子)。
写真: 片柳 弘史