2007年4月  1.キリスト者の聖性
 すべてのキリスト者に求められている聖性とは何でしょうか。
 私たちはミサの間に「聖なるかな、聖なるかな」と唱えたり歌ったりします。その時私たちは、身も心も自然に高められ、御父なる神をたたえる気持ちに満たされるのではないでしょうか。日曜日のミサに集まったキリスト者の一致したこの礼拝は、共同体の大小、社会的な身分の相違、年齢・性別の如何を問わずに、いっせいに父なる神を仰ぎ、賛美の声を上げて御父に向かって発せられています。

 この地上に生きるすべてのキリスト者から発せられるこの叫びを御父は聴き入れてくださっていることは確かです。ミサの間に、キリスト者共同体は「聖なるかな、聖なるかな」と唱え、歌うことによって御父との交わりの時をもちます。完全なる聖性である神がその聖性を限界のある私たちに無限の愛と行動を通して触れさせてくださる瞬間であるとも言えます。

 この地上で私たちは常に戦争、紛争、災害、病気などによる苦しみや悩みに遭遇し、否応なしに身も心も自分の狭い枠の中に向かわざるを得ない日常生活があります。しかし、御父から与えられた私たちの「いのち」は、ミサの間に限らず日々の生活の中でも、「御父の完全なる聖性」に祈りや出来事を通して直接触れることができるのです。にもかかわらず、しばしば自分の弱さゆえに閉じこもってしまう、自分の欲求を満たすことだけが目標になってしまう、そのために他者を犠牲にしたり、無視したりしてしまう私たちの限界があります。それゆえに自己嫌悪に陥って、「自分」の殻の中にすっかり入ってしまうことも少なからずあるでしょう。

 「神に心を向ける」―人間である私の限界から出ること、「自分」という限られた小宇宙から出て、限りない聖性である御父に向きを変える―、どんなに小さないのちでさえも忘れることなくそのいつくしみを注いでおられる御父を仰ぎ見ようと目を揚げ、心を向ける。この回心そのものが、私たちに求められている「聖性への要請」ではないでしょうか。

 この要請に応えることによって、私たちは一人ひとりに固有なものとして与えられた「いのち」を生きることができるでしょうし、他者に「神の聖性」である愛といつくしみを伝えていくことができるでしょう。