2007年4月  2.司祭の召命
 神の聖性とは何かを理解することは、神がどのような方なのかを知ることです。神の民として選ばれたイスラエルは、アブラハムやモーセのような指導者を通して、神がどのような方かを知ることができました。イスラエルが一つの国となってからは、預言者が「神の言葉を預かった人」としてその役割を果たしています。

 新約に生きる私たちは、神の御子であるイエスを通してより直接的に、より具体的に御父がどのような方かを知り、体験することができるようになりました。御父である神は、すべての人々の救いを望んでおられます。そのみ心を私たちが理解できるために、この世界に「神の子イエス」を遣わされました。ベトレヘムにお生まれになった時から十字架上で亡くなられたその最後の瞬間まで、御父から与えられた使命を果たされたことによって、御父はイエスの死を復活の栄光に変えられました。イエスのこの復活という神秘は、私たちとっては、「いのち」が「死」よりも強いという神の力、神の完全な聖性であるという理解に導きます。

 イエスの生涯を聖書で読む時、私たちが今この世界で生き、送っている日常生活に、イエスの生き方を重ねあわせることができます。ファリサイ派の人々からの批判や反対、貧しく疎外された人々への愛、病人の癒しなどなどの「行ない」。そして同時に「神の国」について、「父なる神」について私たちが理解することができるように語られているたとえ話。神の権限として罪人の罪を赦すキリスト。最後に全ての人間の弱さを一身に受けて、神にすべての人が受け入れられて、神の聖性に与ることができるために、十字架上での死を受け入れる神の子キリスト。このようなイエスの生涯全体の生き様を観想することによって、神は「死」に勝つ「いのち」の力であること、神は欠けることのない完全の愛と聖性であることを、理解し受け入れることができるのではないでしょうか。

 復活して今この世界で生きておられるキリストが送ってくださる聖霊によって、私たち一人ひとりは心深くにイエスからの呼びかけを受けていますが、キリストの生き方そのものを、教会という一つの共同体を通して教え、キリスト者がその霊によって一瞬一瞬生かされるために、キリストの教会によって聖別された司祭の存在を与えられているのです。

 世界の各地でこのとうとい使命のために働いている司祭たち、とくに今その召命の必要性を叫んでいる北米や大洋州の教会のために祈りましょう。
写真: 中司 伸聡