2007年5月  1.主のしるし
 復活された主は、今も私たちのうちに生きておられると感じるのは、どのようなときでしょう。主のしるしを、どのようにして見出すことができるでしょうか。主であることのしるしには、何か共通なものがあるでしょうか。ミカ書の「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神とともに歩む」(ミカ6・8)を味わいながら、主のしるしが現れるときの特徴を浮かび上がらせてみましょう。

 「正義を行う」ということは、どのようなことでしょうか。何某かの「力」を用いて、自分の願いを実現させようとする思いや行いは、誰にでもあることです。しかし、どのような「力」を用いるかによって、その行いは、正義に反することになります。たとえば、武器や暴力を用いての行いは、また、政治的な権力や、金銭的な財力を用いての行いは、その願いがどのようなものであろうとも、たとえそれが、その人にとって神のみ旨を行うことに思えたとしても、正義に反することなのです。規則を守ることが正義で、規則を破ることが不正義ではなく、「力」の用い方に、不正義の源があるのです。正義を行うために武器や暴力を用いることなどは、たとえ規則どおりに進めたとしても、まさにそれは不正義の極みなのです。
 また、その行いによって、誰かが悲しんだり、苦しんだり、困ったりすることがあれば、これもまた、正義に反することになります。このことは、「力」と深い関係があります。「力」がある人は、自分の願いを実現することができるのですが、「力」のない人は、誰かが願いを実現させることによって、自分の願いが壊されてしまうからです。
 このように考えると、「正義を行う」ということは、「力」のない人が自分の願いを実現することができる、ということになるでしょう。そして、このような正義を望まれるのは主であり、正義が実現されるときに、主のしるしが現れるのでしょう。

 「慈しみを愛する」とは、どのようなことでしょう。「慈しむ」こととは、「かわいがり大切にする」こと、「いとおしむ」ことです。「いのちをいただいているあなたは、どんなに小さくても、どんな姿をしていても、かけがえのない存在であり、私にとって重要な存在です」という態度を、思いや言葉や行いで表して、目の前にいる人と接することです。この「慈しみ」は神が私たちにかかわる基本姿勢です。「慈しみ」のあるところに神はおられるのです。また、「愛する」とは、自分のことはさておいて、そのことを最優先にする姿勢です。母親が赤ちゃんに接するときの姿勢です。最優先にされるのは自分ではなく、そこにいる「あなた」なのです。
 このように考えていくと、「慈しみを愛する」とは、「目の前にいるあなたのことを最優先にする」ことになります。そして、そのような出来事が起こるとき、「主のしるし」が現れるのでしょう。

 どんなに小さな出来事でも、また、社会を動かすような大きな出来事でも、もしその中に「主のしるし」を見出すことができたならば、そのことに心を重ねて祈りながら、また、自分自身の行いの中にも、「主のしるし」が現れるようにと祈りながら、毎日を過ごしてまいりましょう。
写真: 中司 伸聡