2007年5月  2.謙遜
 ミカ書には「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神とともに歩む」(ミカ6・8)ことが、神が私たちに求める生き方であると記されています。またイエスは「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしに学びなさい」(マタイ11・29)と言われます。今週は、「へりくだる」ことの意味を味わいながら、主のしるしを探してみましょう。

 日常で私たちが「謙遜」というとき、「へりくだること」の同意語として、他人を敬って自分を卑下することを意味しています。自分をことさら表したり主張したりしない、奥ゆかしい態度として、日本人の美徳とされています。しかし、聖書に表される「謙遜」、主が話される「謙遜」は、少し意味が違うようです。
 聖イグナチオは、『霊操(門脇佳吉訳・岩波文庫)』の書物の中で、謙遜を3つの段階に整理しています。第一段階の謙遜は、「主なる神の掟に従う」姿勢です。モーセの十戒とキリストの愛の掟を守り、神に対してへりくだって生きようとする、キリスト者の基本姿勢です。
 第二段階の謙遜は、世間の価値に振り回されずに、簡素な生活を営もうとする姿勢です。聖イグナチオは「貧しさよりも富を、不名誉よりも名誉を、短命よりも長寿を望まず、それに傾かない境涯にあること」と述べています。
 第三段階の謙遜は、私たちの主キリストに倣う姿勢です。世間の価値から自由になる第二段階からさらに進んで、キリストの貧しさを共に生きる姿勢です。「富よりも貧しさを望み選び、侮辱に飽かされたキリストと共に名誉よりも侮辱を望み、無用な愚者とみなされたキリストのために、自分もこの世の智者、賢者と思われるよりは、無用な愚者とみられることを望む」と聖イグナチオはまとめています。
 どうやら「謙遜を生きる」とは、十字架を背負わされて、罵声を浴び、つばを吐かれて、ゴルゴダの丘に登っていったイエスの貧しさを、今日の社会で生き抜くことのようです。ですから、美徳としての謙遜の意味とはずいぶんと違います。

 さて、キリスト者としての「謙遜」を、今日の社会で生きることができるでしょうか。聖マキシミリアノ・マリア・コルベ、や、福者マザー・テレサの生涯を思い浮かべてみましょう。共に、第三段階の謙遜を生きたことが確認できるのではないでしょうか。
 人の目には愚者とみられる貧しさを、自ら願って自ら望んで神への謙遜に生きたキリストのしるしを、日々の生活の中の小さな出来事の中に見出し、それを育んでいくことを心がけて参りましょう。