2007年5月  3.キリスト者の養成
 私たちは、昨日よりも今日、今日よりも明日、よりキリストの生き方に近づくようにと招かれ、導かれ、励まされています。そして、小さな一歩を毎日積み重ねて、私たちは死の瞬間を迎えるまで、キリスト者としての養成の歩みを続けていくのでしょう。

 復活されたキリストが天に昇られて、弟子たちが直接主と対話することができなくなったとき、神は聖霊を送り、弟子たちの共同体を主への道へと招き、導き、励まされました。そして、弟子たちの共同体が、キリストの生き方を世の終わりまで継承していくことができるようにと、教会をお建てになったのです。ですから、キリスト者の養成は、教会共同体の務めであり、また、共同体を通して行われるべきものではないでしょうか。とすれば、弟子たちの共同体の姿に、養成のヒントが隠されていると思うのです。

 「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた。」(使徒言行録2・44-47)と記されています。弟子たちの共同体では、誰かが養成する人で、誰かが養成される人で、誰かが誰かを教えるといった光景をどうやら見ることができなかったようです。そこには分かち合って共に生きる姿と、神を賛美する営みがあっただけです。ペトロはペトロなりに、ヨハネはヨハネなりに、昨日よりも今日、今日よりも明日、聖霊に支えられて、よりキリストに近づく生き方ができるようにと精一杯努めて、神を賛美するその生き方を仲間たちと分かち合った姿があります。

 弟子たちの共同体でのペトロやヨハネの生き方こそ、善良で賢明な養成者の姿なのではないでしょうか。私たちも宣教の地で、全てを分かち合って神を賛美するペトロやヨハネたちの共同体に倣って生きるならば、「主は救われる人々を日々仲間に加え一つに」(使徒言行録2・47)してくださるでしょう。