2007年5月  5.連帯
 私たちが日常生活の中で、この「連帯」という言葉に触れる場面は、何かマイナスのイメージがあります。連帯責任、連帯債務、連帯保証などなど、ある人が社会的な約束において、それを守ることができなかったときに、その人に代わってその尻ぬぐいをするという約束が、「連帯」の意味です。しかし、「連帯」にはもう一つの意味があります。「ある人が一人でその責任を全うすることができなかった場合」という限定された条件を設けずに、はじめから一人ではなく、二人以上が力を出し合って、協力して、ことに当たる、という積極的な「連帯」です。solidarityの訳語としての「連帯」です。しかも、権利義務や金銭消費といった規約上の事柄では無く、まさにキリストの教えを生きる上で力を出し合うことなのです。

 今月は、「正義を行う」「慈しみを愛する」ことについて考え祈り、また、「謙遜」について深めてきました。そして、この「正義」と「愛」と「謙遜」のうちに主の道があることを確信し、ともにその道を歩んだ使徒たちの共同体についても思いめぐらしてきました。
もう気づかれたでしょうか。「連帯」は、使徒たちが「共に」生きた結果として作られた共同体の状態なのです。「共に」歩むことによって、たくさんの人々が一つになって「固く(solid)」結ばれた状態なのです。そうです、「連帯」は共に歩むこと、同伴することによってのみ生み出すことができる状態なのです。

 それでは、誰と、どのような人と、共に歩むように勧められているのでしょう。自分の目の前にいる人であれば、誰とでも共に歩むことが、大原則なのでしょう。目の前にいる人を避けたり、排除したり、無視したりすることがないようにしたいものです。たとえその方が、明らかに主の道を外れて歩んでいたり、悪いことをしていたり、ずるがしこくお金を稼いで金持ちになっていたとしても、目の前の人と共に「主の道」をともに歩むようにしたいものです。イエスは、金持ちでも、罪人でも、イエスの前に進み出た人たち全てと、「共に」歩んでくださったのですから。そして、その人なりの弱さを、苦しさを、痛みを感じながら、歩んでくださったのですから。

 大原則は、全ての人と共に歩むことなのでしょう。しかし、その中でも最優先される人たちがいることを、イエスは伝えています。最優先するというのは、ともに歩むことを求めている人が、目の前にたくさんいるときに、誰を選ぶかという基準です。前回、阪神淡路大震災後のFM放送のことを紹介しましたが、大災害や大事故が起きて、たくさんの人が負傷したときには、重症度と緊急性によって誰を優先的に救助して病院に搬送するかという選択をしなければなりません。この選別を「トリアージ」といいます。もちろん大声で痛みを訴えている人よりも、心肺停止で声も出せないでいる人が優先されるわけです。

 イエスがともに歩む人を「トリアージ」する基準は、何でしょうか。イエスはヒントとして、6人の人を示してくださっています。(マタイ25・36)
1.飢えている人
2.のどが渇いている人
3.旅をしている人
4.裸でいる人
5.病気の人
6.牢にいる人
 今日の社会で人は何に「飢えて」いるのでしょうか。食べ物に「飢えて」いるばかりではありません。人との関わり、親の愛、夫の支え、・・・・。人は何に渇いているのでしょうか。水ばかりではありません。休息、睡眠、信頼、・・・・。この6人は、今日の社会でどのようにして出会うことができるでしょうか。さらにイエスは、この人たちとわたしの道をともに歩み、連帯しなさいと、はっきりとおっしゃっているのです。そして、この人たちは、わたしの姿だと、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである(マタイ25・40)」とはっきりとおっしゃるのです。

 この一週間、身の回りで6人の人を見出し、そこにイエスのしるしを見て、「連帯」し、共に主の道を歩んでいくことができますようにと祈って、毎朝、自らを主におささげいたしましょう。