2007年6月  2.神の愛の証しとしてのアフリカ
 私たちは誰でも、「赦す」という痛みを伴う選択を通して他者と和解するとき、初めて神の愛を証しするものとなります。ルワンダでの大虐殺の時に生き残られた方の叫びとも祈りとも思える証言があります。「昨日まで親しかった自分のよく知っている人たちが、『殺せ』と叫びながら悪魔のような形相で集団で追ってくる。8人くらいでトイレに隠れていた時に赤ん坊の悲鳴が聞こえた。必死に祈っていると、『その赤ん坊はわたしと共にいる。みんなわたしの子どもである。』という声が確かに聞こえた。自分たちを殺そうとしているあの人たちも、ひとりひとりが神様の子ども・・そう思ったとき、絶望の只中で相手を赦す可能性の希望が見えた。」
 「赦す」ことによってしか、自分自身が平和になることはできません。神の似姿として創られた私たちは、赦せない時自分の内側で分裂し、苦しむのです。アフリカを支配するために広められたキリスト教の信仰によって、アフリカの人たちは「赦す」ことに導かれました。神のなさることはいつも計りがたい神秘です。理不尽な耐え難い痛みを一方的に与えられる時、その相手を赦すことは自分の力だけではできるものではありません。「祈り」の中で神に自分を明け渡す時、神の愛が固いしこりを包み込み溶かしてくれます。その時、相手を赦せない痛みから自分が解放されるのです。自分の内側の分裂から解放され、他者への和解へと広がっていきます。
 アフリカの教会が重い十字架を担いながら「赦す」という選択をする時、無実でありながらキリストが私たちのために十字架につけられ死んでくださった、その「愛の証し」を存在を通して見せてくださっているのです。生木を引き裂かれるような痛みを経て、ただ神の恵みによって「赦しがたい思い」から解放された時、はじめて自由になり神の平和のうちに安らぎを得ることができます。
 キリストはユダの足も洗われました。私たちはそのキリストに倣うものとして生きるよう招かれているのです。