2007年6月  3.聖家族に倣う
 ヨセフはマリアが身ごもっていることを知り、ひそかに縁を切ろうとしますが、天使が夢に現れ、そのことばに聴き従い、マリアを妻として迎えます。(マタイ1・18-25)
 家族の中で自分には理解できないことがあると、私たちは自分の思いに囚われ、苦しんだり、相手を非難したり、関係を絶とうとすら思うことがあります。けれども、そのような時、きっとどの選びをしても何がしかの後悔を感じるように思います。ヨセフのように信仰の内に神からの声に聴き従うことによってしか、解決することができないような事柄があります。神は、私たちが思いもつかないような良き知らせを、今も福音にのせて私たちの上に現してくださっていることに信頼をおき、祈りのうちに受諾していくことを神は望んでおられます。そして、そのような神への信頼に満ちた家庭で子どもが育まれるとき、子どもは神の愛をその身に映すものとなっていきます。

 カナの婚礼でマリアはわが子イエスに「ぶどう酒がなくなりました」と告げます。(ヨハネ2・1)周りの困っている人に、家族が開かれています。そして家族として互いを尊重しながらも、周りの困っている状況のために働く信頼があります。その信頼に、イエスは応えていきます。親に信頼される時、子どもはその信頼に応えようと一歩を踏み出し、成長していきます。周りの状況のためにことばや行いを捧げようとする家族であるとき、すべての人が神の愛の家族であることを感じながら、子どもが育っていきます。

 家族において私たちが陥りやすいのは、自分の思いを押し通そうとすることです。実はその思いがどんなによいものであっても、他から押し付けられる時、そこには他の存在への尊重が見られません。親は往々にして、子どものためによかれと思って押し付けてしまうことがあります。子どもはそのような中で、自己肯定感を持ちにくくなったり、抱えきれないほどの悲しみを背負うこともあることを親は知らねばなりません。
 「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ15・12)一人ひとりが神から創られた愛の家族として、互いに祈り合い、互いに大切にし合い、互いに助け合いながら、神の平和の道具として成長していくことに私たちは招かれています。一つの家族から、神の愛の家族としてすべての人へと。