2007年10月  1.キリスト者とは誰か
 「キリスト者とは誰か」――改めてこの問い掛けを自分に向けてみると、その答えは単純でありながらも深いものであることに気づかされます。「キリスト者」とは、「キリストに属する者」あるいは「キリストに従う者」でしょうか。この名称は、最初は外部から与えられたものであって、イエス・キリストの道を歩む者たちが自分たち自身を指すために使い始めたものではありません。しかもそれは蔑称的なものであったようですが、後に、彼らはむしろそう呼ばれることを誇りに思い、自分たちの方から用いるようになったようです。それ以前、キリスト教は「この道」(使徒言行録9・2)と呼ばれ、それゆえ、紀元43年ごろ、シリアのアンティオキアで、イエスの道に従う人々が「キリスト者」と呼ばれるようになったと言われます(同11・26)。
 一人の人間がどのようにしてキリスト者となるのか――聖書はそのことについて、さまざまな召し出しの場面を描いています。例えば、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ1・17)――そう言ってイエスは、湖で網を打っていたシモンとその兄弟アンデレを招きました。パウロの召命は劇的です(使徒言行録9・1-19、22・6-16、26・12-18)。「わたしが選んだ器」(使徒言行録9・15)として、イエスは自分を迫害していたパウロを有無を言わせず捉えます。その他にも、たとえ聖書には記されてはいなくても、多くの人びとがそれぞれのイエスとの出会いを体験したことでしょう。
 イエスと弟子との関係は、極めてユニークなものでした。まず、弟子が師を選ぶのではなく、師が弟子を選びます。弟子となる者は、「一切を捨てること」(ルカ14・33)、すなわち、凛とした覚悟が求められます。その意味で、キリスト者となることは、確かに「狭い門」(マタイ7・13)であり、自分を捨て、日々、自分の十字架を担いながらイエスに従うことが求められます(ルカ9・23)。しかし同時にまた、イエスと労苦を共にする者は、その喜びにも与ります(二コリント7・4参照)。
 真のキリスト者となること、それは決して、一時的な感情の高まりや無分別な判断によるものではありません。ある種の落ち着きが必要です。単純で素朴な心でイエスのことばを聴いて悟り(マルコ7・14)、腰を据えて(ルカ14・28、31)、彼の招きに応えることが大切です。しかしそれは、私たちのうちに常に揺ぎない確信があるというわけではありません。私たちは弱く不確かな存在であり、たとえ誠実であろうとしても過ちを犯し得る存在です(ローマ7・15参照)。しかしそれでも、イエスの真心に自らを託したい、その心に偽りはありません。パウロが語るように、神は「世の無力な者」(一コリント1・27)を選ばれます(申命記7・7参照)。自分の弱さ、あるいは自分が取るに足りない者であることを謙虚な心で認めるとき、私たちは真のキリスト者となる一歩を踏み出すことができるのではないか、そう思います。