2007年10月   2.イエスから託されたこと
 キリスト者――イエスの招きに応えた者――は、イエスからいったい何を託されているのでしょうか。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16・15)――これは復活したイエスが、弟子たちに託したことばです。その弟子たちとは、復活したイエスと出会った人々の言葉を信じようとはしなかった、不信仰で心のかたくなな人々です。またかつては、キリスト教徒のみならずイエス自身をも迫害していたパウロに語ります――「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ」(使徒言行録22・21)。私たちがイエスから託されていること、それは基本的には彼らと同様です。すなわち、御言葉を宣べ伝えることです。

 そのためにまず私たちがしなければならないのは、御言葉を聴くことです。パウロが語るように、信仰はキリストの言葉を聞くことから始まります(ローマ10・17)。イエスは私たちに新しい掟を与えられました――「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34)。「愛する」という言葉自体は、しかし、ある意味で抽象的です。ですから私たちは、それを自分の生活の中で体現することが求められます。見えない神の愛が一人の人間として私たちに与えられたように(ヨハネ1・14参照)、私たちの愛もまた、具体的な形を採らなければなりません。

 それは主に、二つの行為を通してなされます。一つは、「互いに仕え合う」ということです(ガラテヤ5・13)。イエス自身、自分は仕えられるためではなく仕えるために来た、と語りました(マタイ20・28)。そのことをイエスは、最後の晩餐の席で、弟子たちの足を洗うという行為によって示しました(ヨハネ13章)。人の足を洗うことは、当時、奴隷の仕事とされていました。ですから、愛することと仕えることとは、ある意味で一つのことと考えてもいいでしょう。もう一つは、「互いに赦し合う」ということです。罪深い女を赦されたとき、イエスは語ります――「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」(ルカ7・47)。

 しかし言葉の深い意味で、人に仕えるということも人を愛するということも、そう簡単にできることではありません。両者とも自分に何も保留しないとき、真に実現されうるものです。もし自分がこれらのことを実現できたとするならば、それはある意味で、奇跡と言ってもいいかもしれません。つまり、自分において神が働かれたのです。自分を通して神が自由に働かれ、そこに喜びを見出します。祈り求めたいこと、それは竹のようなしなやかな強さをいっぱいに満たした心です。