2007年10月  3.福音は微笑みとともに
 「福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16・15)――これは私たち一人ひとりがイエスから託された務め、さらに言うならば、使命です。その意味で私たちは、イエスから派遣されていると考えることができるでしょう。それに先立ってイエス自身もまた、父から派遣されています――「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」(ヨハネ6・38)。確かに、イエスがこの世に来られる前にも、神の御旨を伝えるために多くの預言者が遣わされました。しかし、彼らの派遣とイエスのそれとは根本的に異なっています。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」(ヘブライ1・1-2)。つまり、彼らは神のみことばを伝える者でしたが、イエスは神のみことばそのものです(ヨハネ1・1-4,14)。
 御自分の計画を実現するにあたって、神は、何もこのような面倒な方法を取らなくても、もっと簡単に自分だけで行おうと思えばできたでしょう。しかし神は、あえてこのような宣教という愚かな方法を取られました(一コリント1・21参照)。なぜでしょうか。派遣ということが成り立つためには、派遣する者とされる者との間に「信頼関係」が必要です。もちろん、派遣された者が派遣した者の意向をいつも完全に履行できるという保証は、(イエスを除いて)ありません。しかし派遣される者がそれを真摯に受け取り、誠実にそれを果たそうとするかぎり、必ず何らかの実りはあるはずです。自分は誰かから信頼されている――このことの自覚は、私たちにとって大きな力であり、喜びであり、また慰めです。
 「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」(ヨハネ17・21)――イエスの祈りです。「一つであること」――これは派遣において中心的なことです。派遣する者とされる者が一つでなければ、そこには何らかのズレが生じます。「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14・9)――そうイエスが言い切れるのは、自分と父が一つであることに微塵の疑いもないからでしょう。
 福音とは喜びの知らせです。喜びは自ら私たちの中から溢れ出てくるものです。しかも喜びは、他の人と分かち合うとき、さらに大きな喜びとなります。ですから、もし自分の中に喜びが生まれたら、それを他の人に伝えたくなるのは、極自然なことです。福音を宣べ伝えることは、それゆえ、義務だからそうするのではなく、そうせずにはいられないからです(一コリント9・16参照)。自分の一番深いところから溢れ出てくる喜び――それをそのまま生きることができればいい、それで足ります。福音は眉間にしわを寄せて語るものではなくて、もっと自然な微笑とともに、暖かく伝えられていくものであってほしい、そう思います。