2007年10月  4.季節の中のいのちの福音
 かつては10月を神無月とも呼び、八百万の神々がみな出雲大社に集まり、他の国にはいなくなる、と考えられてきました。太陽暦の10月8日頃(今年は9日)には二十四節気の一つ寒露を迎え、23日頃(今年は24日)には霜降を迎えます。普段の生活の中ではほとんど耳にしなくなりましたが、こうような季節の暦は、やはり、心に響くものがあります。以前から地球の温暖化が問題視されている一方、どこか他人事のように聞き流している風潮も否めません。日本は本来四季の変化に富んだ自然に育まれ、そこに住む人びとはそれに対する繊細な感受性を大切にしてきました。このような風土の中で、私たちはどのように福音を聴き、それを生き、人びとに語ることができるのでしょうか。
 福音の原点――それはイエス・キリストです。イエスは抽象的な論理を展開することも、また神学体系を構築することもありませんでした。むしろ彼は、日常生活の中で人びとが分かる言葉で対話をしながら、また、たとえを交えながら語りました。ほんとうに大切なことは、実は驚くほど単純で素朴なものではないか、と思います。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」(マタイ11・25)。それを複雑にしているのは、私たち人間です。
 巧みな言葉でなくてもいいから、自分の言葉で福音を語ることができたらどんなにいいだろう、と思います。言葉は生きています。人を慰め励ますこともあれば、傷つけることもあります。また同じ言葉であっても、それが使われる文脈によって言葉のニュアンスが変わってくることも珍しくありません。私たちが受け継いできた多くの日本語には、季節感があります。ですから、そのような言葉によって語られる福音も、自ら季節感のあるものとなるのではないでしょうか。もしそうでないとするならば、何かがおかしい。あるいは、そのような言葉で福音を聴き語っていないのではないか、と思います。無味乾燥な、いつでもどこでも通用するような抽象的な言葉では、本来福音に込められているいのちの息づかいは、伝わってこないでしょう。
 「人の口は、心からあふれ出ることを語る」(ルカ6・45)――そうだな、と思います。それがいい言葉であっても悪い言葉であっても、もし心の中になければ、口を衝いて出てくることはないでしょう。ですから、もし福音が自分の心の中で暖められているならば、自分の語る一つひとつの言葉は、たとえそれらが異なっていても、福音が一つの形をとって現れてきたものと言えるのではないでしょうか。福音は一つの言葉に凝り固まってしまったようなものではありません。むしろもっとしなやかに、時と場合に応じて様々に変化しながら、私たちを照らし、励まし、導くものではないか、そう思います。