2007年10月  5.福音的な支え方
 「雲の峯 幾つ崩れて 月の山」――今から300年程前、松尾芭蕉が奥の細道において読んだ句です。月の山とは、月山(山形県)を指していますが、同時にまた、月が照らす山をも意味しているでしょう。いずれにしても、月が私たちに与えるあの神秘的な美しさ、またそれに対する日本人の繊細な感受性が、今もなお息づいているようです。自然はこのように、私たちを優しく包み、その背後にあるものへと誘います。しかしその一方で、思わぬ災害を私たちに与え、ときにはいのちを奪うこともあります。そのような状況の中で、福音はどのように私たちに語りかけてくるのでしょうか。
 すぐにでも現場に行って何かしたい、そう思う人は少なくないでしょう。しかし同時にまた、仮にそこへ行ったとしても、実際に何ができるのだろう、そうと考えたとき、具体的な方策が浮かばないのも事実かもしれません。被災した人びとだけには限りませんが、何らかの困難のうちにある人を手伝いたい、そのようなとき、確かに金銭的・物質的な支えは大切です。しかし同時にまた、そういったこととは別に、福音的な支えや手伝いもあるのではないでしょうか。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7・12)――これは有名な黄金律です。この言葉を聞いてある人びとはこう言います――「自分がしてもらいたいと思うことと、人がしてもらいたいと思うことは違う。」しかし果たして、黄金律が語っている「してもらいたいこと」とは、そのような個々のレベルのことなのでしょうか。
 いまだかつて「自分は不幸になりたい、そのために生きている」と言う人に出会ったことはありません。むしろ反対に、人は誰でも、本来、生きるということ、しかも幸せに生きるということを求めているのではないでしょうか。言い換えるなら、私たちはいのちそのものへと向けて造られています。ただ何をもって幸せと考えるか、それは人それぞれです。聖書によれば、神はいのちそのものであり(詩編42・3参照)、自らのいのちにあずからせるために私たちを造られました(知恵1・13-14)。さらにイエスは自らのことを、「いのちのことば」(一ヨハネ1・1)、「いのちのパン」(ヨハネ6・35)と語ります。
 イエスはかつて、自分は仕えられるためではなく仕えるために来た、と語られました(マルコ10・45参照)。いのちは仕えることによっていっそう輝きます。仕え方はさまざまです。たとえ被災した人びとと直接会い、具体的には何かできなくても、他の方法によって仕えること、手伝うことは可能です。例えば、その人びとのために心を込めて「祈る」ということも、大きな支えの一つです。自分の祈りをとおしてある人のいのちに仕え、支え、励ます――素晴らしいことです。「しあわせ」とは「仕合せ」、つまり、仕え合うことによって生み出されます。これもまた、一つの大切な福音の生き方ではないだろうか、とそう思います。