2007年12月  3.隔離収容政策
 私たちは障がい者の人権についてどのように考えてきたのでしょうか。またどのように接してきたのでしょうか。過去をしっかりふり返り、その事実を受けとめることが大切だと感じています。

 この問題について、日本の政府が行ってきた「隔離収容政策」の歴史をとおして考えたいと思います。ハンセン病の方々は、行政の間違いによって長い間収容所に隔離されていました。現在では、国を追われた方々が、難民の認定を受けられないまま、牛久などの収容所での隔離を余儀なくされています。同じように、精神障がい者の方々にとっても、1950年(昭和25年)までは「私宅監置」され、その後は「社会的入院」という形で隔離収容の時代が長く続き、現在に至っています。私たちはこの方々の痛みを感じてこそ、これからの障がい者の人権を考えることができるのだと思います。

 精神障がい者の歴史は悲惨です。「私宅監置」が容認されていたのです。国は法律でそのように規制してきました。その「監置室」というものは高さおおむね六尺(約180cm)が平均でしたが、四尺に満たないものもあったようです。基本的に木製で、動物園の檻のように、角材を柵状に並べた格子で四方を囲ったものもあれば、一部だけ格子であとは板張りのもの、全てが板張りで窓もなく暗室状態になっているような物も報告されています。こういった檻に、精神に異常をきたした家族を閉じ込め、座敷や土間、土蔵などに置いていました。
 かなり劣悪な環境の例もあり、当時の東京帝国大学が行った調査で報告されたものでは、患者は10年10ヶ月の間、ほぼ完全な暗室状態の監置室に閉じ込められ、何の治療も受けられず食事もわずかな駄菓子程度しか与えられていなかった、という例もあったそうです。1918年に東京帝国大学の呉秀三が「我が国何十万の精神病者は、実にこの病を受けたる不幸の他に、この国に生まれたる不幸を重ねるというべし。」とその悲惨さを訴えました。

 この私宅監置が1950年に廃止になった後に、次に打ち出されたのは、当時の世界的な潮流が病院から地域へという考えになっていたにもかかわらず、逆に病院をどんどん増やし、精神障がい者を社会防衛の目的で地域から引き離して入院をさせていくという日本政府の政策でした。「社会的入院」とは医療上は入院治療の必要がないにもかかわらず、差別や偏見や社会福祉施設の不備などによって地域に住むことができずに入院を余儀なくされていることを言います。このように長い期間にわたって入院させられていると、日常生活のための習慣や能力が低下し、地域で暮らす不安から退院の意欲がなくなってしまうのです。現在でも、社会的入院の方は7万2千人いると言われています。最近の政策はこの方々を地域で暮らせるようにと方針を大転換させましたが、地域へ戻るための社会資源は決して多くはないのです。

 国の政策によって隔離収容されてきたとはいえ、それを傍観し黙認してきた私たちには、障がい者の人権を守ることができなかった大きな責任があります。今なお入院している7万2千人の精神障がい者に、地域で暮らすことができる機会を提供するために何ができるかを、今私たちは真剣に祈り、考え、行動するように望まれていると思います。そして、この望みは神の望みであると確信しています。
 待降節にあたって、私たちが地域で障がい者とともに暮らすことができるように、祈り続けたいと思います。