2008年3月  1.罪と赦し
 犯した罪のために、自分を責め続けたり、あるいは罪の原因を他の人のせいにすることなく、罪が御父によって赦されるものとなるために、御子であるイエスが十字架への道を歩み、復活へと導かれていきます。私たちは四旬節の今、その道をイエスとともに歩んでいますが、そのイエスとともに復活の栄光へと導かれていくことができるように、毎日をささげましょう。

 一人の目の不自由な人がいます。彼女は小さい時に大変な熱病を患った後に、目が見えなくなりました。その時に母親がどれほど彼女のために看病してくれたかを彼女は今でも決して忘れていません。自分の目が見えないことを嘆いたり、悲しんだりしていません。高校までは目の見えない子どもたちの学校に通いましたが、大学に進学するとき、一般学生と一緒に入学試験に挑み、合格して、他の学生たちと同じように卒業しました。就職活動も自分で行って、コンピュータ関連の会社に就職しました。

 もちろん、彼女の道が平坦であるはずはありません。しかし、目の不自由さを嘆いたり、他人のせいにしたりしないで、できるだけ積極的に、肯定的に一つひとつの試練を乗り越えてきました。今でも周囲にいる人たちは彼女の障がいを忘れてしまうほどです。そのような生き方を獲得することができたのは、彼女の能力や精神力によっているでしょうが、同時に母親や家族の暖かい愛情があったことも疑うことができません。ですから、「目が見えないこと」を、取り除くことのできない罪とか罰と考えるのではなく、あるがままの自分を受け入れて、神さまが彼女に与えた使命として受け取り、その使命を素直に果たそうと生きているのです。

 そして、彼女の生き方の中に、心の底にある信仰の強さを見ることができます。それはすべてを愛して、そのために十字架の死を受け入れ、御父によって復活されたイエスの姿を彼女の心を通して見ることができるからです。

 3月2日の四旬節第4主日に読まれた「生まれつきの盲人の癒し」の箇所で、弟子たちは、「目が見えないのは、だれかの罪のためですか?」と主に尋ねています。この問いに、私たちはどのように答えることができるでしょうか。