2008年3月  2.愛と赦し
 私たちが人を赦すこと、神が私たちの罪を赦すことでは、「赦す」の本質的な意味が違っていることに気づいていますか。日本カトリック聴覚障害者の会は、ミサにおける手話表現を日本全国で共通のものにしようと試みて、1990年には『手話によるミサ式次第』を刊行するに至りました。そこに納められた「主の祈り」の手話表現には、「赦す」ことが二通り出てきます。私たちが人を赦すときの「赦す」は、《肘を中心にして握った拳を体の前で下に降ろす》動作で、人がおじぎをして頭を垂れている様子を表しています。一方、神が私たちの罪を赦すときの「赦す」は、《握った左右の拳を手首のところで重ね合わせておき、重ねた部分を左右に広げる》動作で、手首を縛られていた人が、それを解き放されている様子を表しています。神の赦しは「解放」を表現したものなのです。

 一人の女性が、歯科の医療事故にあって、後遺症で苦しんでいます。顔が腫れたり、骨が痛んだりするので、弁護士を介して医師との交渉を進め、事故の原因と治療の方法を模索していました。彼女は、「修復的司法」という加害者と被害者の和解の道を知ることになります。裁判に持ち込めば、慰謝料と損害賠償を得るに充分な証言や証拠があったにもかかわらず、彼女は和解の道に進みました。キリストの愛に根ざした「修復的司法」を実践したのです。顔の腫れや骨の痛みが全く消えたわけではありませんが、医療事故の後始末のために歯科医と争っている状況は、なくなりました。赦しが解放につながったのでしょう。最近は彼女の顔に、笑みが浮かんできました。

 愛されていることは、どのようにして実感できるのでしょうか。優しく、ていねいに、こちらの言い分を聞き入れて、私のために何でもしてくれるなら、その人の私に対する愛を確認することができるのでしょうか。私に対する態度は、やがて変わるかも知れないという不安も抱きながら、愛されているような気持ちにもなります。でも、私が犯した罪や過ちを、たった一度でも赦してくれたことを体験することができれば、その赦しは、愛されていることの充分な証しとなります。

 赦すことができたでしょうか。愛を深めることができたでしょうか。主のご復活を前に、「主の祈り」の「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。」の言葉を味わいなおし、深めて参りましょう。