2008年3月  3.罪と赦しと十字架
 イエスは、愛の行いを指し示すためのモーゼの律法が、その本質を見失って、当時のユダヤ社会の慣習と結びつき、むしろ愛の行いの妨げとなっていることを見抜かれました。そこで、何よりも優先される「愛の掟」を示し、律法を超えて自ら「愛」を実践されました。

 当時の社会では、律法を犯すことが罪となり、その償(つぐな)いのために罰を受ける仕組みが作られていました。この考え方は、今日の法制度にも大きな影響を与えていて、人を殺(あや)めた者を死罪・死刑とすることの根拠にもなっています。罪の大きさによって償いの内容も段階的に大きくなり、最も大きな罪に対して、死罪としているのです。

 さて、イエスは、罪をこのように捉えてはいませんでした。「愛の掟」を守れなかったことを、「罪」としたのです。その償いとしては、心を神に向けること(回心・メタノイア)によって、神の赦しを求めることを求められました。サマリアの女、姦通の女などの場面で、イエスが薦める償いの方法が、具体的に示されています。一人ひとりが愛の行いの妨げとなる「悪」に対して、心の中でそれを退けるように、もし、その「悪」の誘(いざな)いによって、愛することを妨げられたのなら、愛すべき相手に、そして神に、赦しを願うことを求めているのです。

 イエスの思いは、結果的に当時の人びとには受け入れられませんでした。むしろ、律法に従わずに、人びとを惑わせる罪人と判断されたのです。ピラトが「この人に何の罪も見出すことができない」と言うにもかかわらず、群衆は「十字架につけろ」と叫ぶのです。群衆の意向で、死罪となったのです。そして、愛の掟を守れなかった、愛の掟の意味を理解できなかった、すべての人の罪の贖(あがな)いのために、十字架の上でいのちを神にお返しになったのです。

 聖週間の典礼にあずかりながら、罪とは何か、償いとは何か、罰とは何か、赦しとは何か、そして、贖いとは何かについて、今一度心の中で深めてみましょう。
画: E. Weinert