2008年4月  1.修道召命
 第2バチカン公会議から半世紀が経とうとしています。この公会議では、洗礼の恵みによってキリストに結ばれたすべての者は、一人ひとりが固有の召命(ボケーション)と使命(ミッション)をいただいていることが確認され、信徒使徒職として強調されました。一方で、修道生活についても見直しがなされて、愛と慈しみが特に大切なこととされ、養成の方法や生活様式にも大きな変化が起こりました。その結果でしょうか、修道者が苦行を強いられることはなくなり、温かくされた住居での生活も営まれるようになりました。修道者としての福音宣教へのかかわりも、信徒の使徒職の運動の陰になって、修道者のアイデンティティそのものが大きく揺らいだのでした。

 自ら修道召命を生きているのであれば、あるいは修道召命への招きを感じているのであれば、その本質がどこにあるのか整理できているのでしょう。しかし、教会に所属するすべての人が、修道者とは何かについてよく理解していることは、召命の促進のために大変重要なのです。修道者と信徒とは、何がちがうのでしょうか。ここでもう一度確認しておきましょう。

 今月の日本の司教団の意向でも、「奉献生活」の用語を用いていますが、修道者は教会の中で公に「奉献」を宣言し、その宣言が神によって祝福された者である点で、信徒と異なります。つまり、神からいただいたいのちを、神へお捧げして、自分を神の望みを実現するための道具として使っていただくことを、公に約束した者なのです。

 この約束は、一人で実現することは不可能です。ですから、互いに支え合い励まし合う共同体での生活が営まれます。一緒に生活する共住の形態を取るのか、一人ひとりで住むかといった違いはありますが、使徒たちのように、共同体での生活が営まれます。一つの共同体が、神の望みのすべてを実現することなど、到底できることではありませんから、どこに力を注ぐか、共同体の目的が掲げられます。「会のカリスマ」などと言われていますが、神が一つの共同体に託した使命が「会憲」に具体的に示されています。カトリック教会は、この共同体を正式に認めてきました。修道会だけではなく在俗会も奉献生活者の共同体ですので、「修道者」と言わずに「奉献生活者」と呼んでいるのです。

 奉献生活者は、伝統的に三つのことを守って神に仕えることを約束します。「清貧」「貞潔」「従順」の三誓願です。

 「共同体」の中で「三誓願」を生き、自らを神へ「奉献」する道について、多くの人がより深く理解することができるように、そして、多くの若者がこの道に招かれていることに気づくことができるように、ともに祈って参りたいと思います。