2008年5月  4.福音を告げ知らせる
 獄中にあったパウロはエフェソの信徒に書いた手紙で次のように自分の使命について語っています。「(福音に仕える者としてくださった)この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。わたしは、この恵みにより、キリストの計りしれない富について、異邦人に福音を告げ知らせて(います)」(エフェソ3・8)。
 パウロの、「福音を告げ知らせる」という表現は、二つの側面から考えることができます。第一に、人間の神から預かった福音は、監禁などによる身体的な条件に制約されない広がりと深さをもっているということです。パウロの異邦人に向かう宣教認識は、投獄によって弱まるばかりか、ますます強くなっていきました。それはダンテも言ったように、自分の使命を、「すべての天と地が参加する」神の普遍性の中で見ることができたからだと思います。
 第二に、「告げ知らせる」ということは、語り手と聞き手との間の真のコミュニケーションから生まれるということです。パウロは、「福音を告げ知らせる」ことは、また、「(神の内に)秘められた計画が、どのように実現されるかを、説き明かす」(3・9)ことであり、それはまた、「(その福音が、地上だけでなく)天上の支配や権威にまで知らされる」(3・10)ことであるとします。「述べ伝える」から「説き明かす」から「知らせる」に至るまでの動詞の進展において、福音宣教の真の方法論が浮かんできます。それは、福音宣教とは、「自分が預かっているものを一方的に伝えるものではなく、それを聞く人びとが分かるように説明をし、理解ができるまで試みる」ということです。すなわち、真の意味での福音宣教とは、語り手と聞き手の間に起こる一つのコミュニケーションであるということです。

 コミュニケーションは、人と人とが人格的に出会うことによって起こる出来事です。もしその出会いが、聖霊に導かれる恵みであるとすれば、そこには、悲しみを和らげ、不安や恐れから開放し、喜びや平和、勇気と謙遜、回心と責任というような体験に導きます。もし、福音を述べ伝える仕事が、人びとを失望させたり、偽りの慰めに導いたり、罪悪感を深化させたりするものであれば、それは本当のコミュニケーションにも、本当の福音宣教にもならないことでしょう。
 現代の教会が自分の弱さや限界に閉じ込もらないで、もっと積極的に人に向かい、その出会いから、人の運命を変えることができるようなコミュニケーションが行われる共同体であるように願います。特に、監獄からのパウロのヴィジョンと信念とが、現代の教会にも与えられることを祈ります。