2008年6月  2.夫婦への召命
 私たちの人生の中で、男女の出会いとその交流ほど素晴らしく、喜びや人生への生きがいを与えてくれるものはないでしょう。創世記第2章は、男性と女性が互いに欠くことのできない存在として、大切にされていること、男女が互いに親密な交わりをもち、共に支え合っていくことが、神の創造の意図であることを明らかにしています。
 土の塵で形造られ、命の息を吹き入れられることで生きる者となった人(創世記2・7)を見た神は、「人が独りでいるのは良くない」と考えます(創世記2・18)。「良くない」というのは、人間の本来の目的や理想に照らしてみて「良くない」ということです。そこで「彼に合う助ける者を造ろう」(同)とされました。「助け手」という言葉は、詩編に神は「私の助け」(詩編121・1)と歌われているように、神を指す言葉としてよく使われています。つまり、その助けがなければ、存在が崩れ、滅んでしまうほど必要なものとしての助けと考えてよいと思います。人が独りでいるということは、神の創造の意図にかなっていないだけでなく、本質的に人間の存在を傷つけてしまうことなのです。
 そこで神は、「人を深い眠りに落とされ」(創世記2・21)、「あばら骨の一部を抜き取り」(同)女性を造られました。神が彼女を人のところへ連れて来ると、人は「これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉、これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)かた取られたものだから」(創世記2・23)と言って喜びます。肉の肉、骨の骨という言い方は、家族や親族などの密接な関係を示すものですが、ここでは男性と女性の親密な一体性、交わりが強調されます。やがて、「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体と」(創世記2・24)なります。男女が一つに結ばれようとする力は、父母とのつながりを超えるほど強いものです。それは、男性、女性の本質の中に刻まれているものであり、二人は身も心も一つになって共に生きていくようになります。
 「二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」(創世記2・25)と書かれているように、二人は互いの弱さや欠点をさらけ出しても、お互いの愛と優しさの中で包まれ、深い信頼のうちに向かい合っていくのです。
 このように、結婚は神が意図し、与えられる大切な召命なのです。