2008年6月  3.国際聖体大会
 ヨハネ福音書(6・51-58)でイエスは、ご自分の「肉」と「血」が私たちの「いのち」を育てるものであることを強調しています。御聖体は、そのために私たちに与えられた大きな恵みです。
 それでは、イエスの肉と血が、私たちの「いのち」を育み、支えるということは、どういうことなのでしょうか。御聖体の神秘を深く味わうために、わたしたちの「いのち」が多くの人の心と愛によって生かされているということを考えてみることが大切です。
 私たちの「いのち」は自分で作り、育て、支えてきたものではありません。それは、与えられたものであり、生かされてきたものであるはずです。親の深い愛がなければ、私たちはけっして成長することはできなかったでしょう。身をけずるような親の献身的な愛があって初めて、私たちは今日まで生きてくることができたのです。私たちが一人前に成長するまでに、親は、絶えることのない自己否定の日々を過ごしてきたでしょう。自分の肉を捨て、血を流すような日々を積み重ねてきたはずです。私たちの「いのち」の根底には、こうした親の心と愛が刻まれているのです。
 私たちの「いのち」のために、ご自分の肉と血を与えようとするイエスの中にも、こうした愛の心が満ちていました。イエスがご聖体を制定したのは、十字架にかけられる前の日です。何も知らない子どものために、母親が自分のいのちと、自分の持てる力のすべてをかけて、子どものいのちを守ろうとするように、イエスも、罪の中でさまよう私たちのために、ご自分の力といのちのすべてをかけて、私たちのいのちが滅んでいくのを守ろうとされたのです。
 自分のいのちは弱まり、衰えていくのを知りながら、愛は、愛する者のために自分のいのちを惜しみません。力尽きようとする肉体のすべてをかけて、愛する者のいのちを守り抜こうとするのです。御聖体の神秘の中に、私たち一人ひとりに向けられたイエスの愛と心を見つめましょう。それこそが、私たち一人ひとりの「いのち」を支え、育ててくれるものなのですから。