2008年7月  1.食事と共同体
 家族そろって食卓を囲む――当たり前のことのようですが、しかし、現代では珍しいことになっているようです。社会そのものが忙しくなってきていることもあるでしょうが、同時にまた、一人ひとりの生活があまりにも個人主義的になっていることも、原因の一つかもしれません。もちろん、地域によって違いはあるでしょう。しかしそれでも、もし一日一度でも家族そろって食卓を囲むことができるなら、それは素晴らしいことです。食事は、ただ単に、空腹を満たすことや栄養の摂取に尽きるのではなく、食卓を囲むことによっていっそうお互いが親しくなる、そのような大切な時と場であると思います。
 ある人と親しくなりたい、あるいはまた、その人のことをもっと知りたい――そのような時は、時間をかけて議論をするよりも、一度でもいいから、その人と食事をともにした方が遥かに有意義だろう、とそう思います。
 イエスは実に多くの人々と食事をともにしました。食事をともにするということは、そもそも、その人との関係が親密なものであることのしるしであると言われます。イエスは誰とでも、何の偏見も躊躇もなく交わりました。さらに興味深いのは、彼はしばしばそのような場において、神の国の秘密を語っています。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17・20-21)――「あなたがたの“間”」とは、いったい何を意味するのでしょうか。
 カナの婚宴(ヨハネ2・1-11)では最初の奇跡を行い、ファリサイ派のシモンの家では、一人の罪深い女を赦されました(ルカ7・36-50)。弟子として招いた徴税人マタイの家で、イエスははっきりと語ります。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9・13)。また「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ19・5)と言って、徴税人の頭であるザアカイの家に赴きました。そしてこの世を去る時には、弟子たちとともに最後の晩餐を行い(マタイ22・14-23)、遺言として新しい掟を弟子たちに与えられました――「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34)。
 私たちが囲む食卓、それはイエスを中心とするこの食卓の延長線上にあります。「わたしがいのちのパンである」(ヨハネ6・35)というイエスのことばは、今もなお、その意義を失ってはいません。キリスト教共同体は、このキリストを頭として一つにまとめられる共同体です(エフェソ1・10,22参照)。一人として排斥される人物も、意味のない人物もいません。なぜなら、この共同体に属するものは、みな一つの身体となるために洗礼を受け、一つの霊を飲み(一コリント12・13参照)、一つのいのちによって生きているからです(ヨハネ17章参照)。