2008年7月  2.福音宣教の原点
 2008年6月28日から2009年6月29日までを「聖パウロの年」として、その生誕二千年祭を祝うことになりました。周知のように、パウロはペトロとともに、教会の礎を築いた人として、教会の中では特別の位置を占めています。とりわけ彼は、「異邦人の使徒」とも呼ばれていますが、もし彼がいなかったならば、少なくとも現在あるようなキリスト教はなかったかもしれません。そのパウロが語ります――「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」(一コリント9・16)。
 福音の原点、それはイエス・キリストです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・15)――これは宣教の初めにイエスが語られた言葉です。時が満ちるとは、終末における救いの時。「神の国」(バシレイア)とは、神が「王」(バシレウス)として支配することを意味します。「神がすべてにおいてすべてとなられる」(一コリント15・28)――それは、長い歴史をとおしてイスラエルの民が願い求めてきたことです。イエスにおいて、この神の国/神の支配が端的な事実となった、と告げられます。それはまだ、しかし、完成したわけではありません。この世にありながらこの世に属さない、神の国。その実現のために、私たち一人ひとりは招かれます。
 私たちが招かれたのは、しかし、決して私たちが人間的知恵にたけていたからでも、また地位・家柄に恵まれていたからでもありません。むしろそうではなかったからこそ、招かれたのです(一コリント1・26-28参照)。この「招き」は同時にまた、「選び」でもあります。「教会」(エクレーシア)が「選ばれた者」(エクレクテー)でもあることは、この招きが神からのものであることに基づいています。教会はまた、「キリストの体」(一コリント6・15)とも言われます。すなわち、キリストは頭、私たち一人ひとりはその体の部分です(一コリント12・12-31、エフェソ1・10,23参照)。一つとして、不必要な部分はありません。どの部分も、それぞれの良さを活かし合いながら、体全体を活かしています。
 神の招きに応えることは、しかし、必ずしも容易なことでありません。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9・23)――(ああ、「狭き門」(マタイ7・13)……。)しかし同時にまた、イエスと労苦をともにする者は、その栄光をもともにする、と聖書は語ります(ルカ22・28-30)。大切なのは、(自分の力ではもはや何もできない)と思うとき、その時にこそ、「信仰の創始者また完成者であるイエス」(ヘブライ12・2)を観ることでしょう。パウロもまた、私たちを励まします――「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」(二テモテ4・2)。復活したキリストと出会った彼が、生涯確信していたこと、それは次のことばの中にあります――「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2・20)。