2008年7月  3.聖霊の働きと共同体
 朝、目が覚めると、まず窓を開けます。爽やかな風が部屋を吹き抜けると、自分の身体の中まで新たにされるかのようです――「あなたの息を送ってください。すべてが新たになるように。」物事がうまくいかないとき、考えがまとまらないとき、あるいはまた身体の具合が思わしくないとき、そのようなときは、風が流れていません。しかしもし一陣の風が吹くならば、事態は変わります。「風は思いのままに吹く」(ヨハネ3・8)。この風に包まれそれに身を任せるとき、私たちは、ほんとうの自由になるのでしょう。そしてこの自由への招きこそ、イエスの福音にほかなりません。
 イエスの福音は、「神の国」の訪れを伝えるものでした。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17・20-21)。この神の国の中心、それはイエスにあります。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18・20)。私たちの中心にイエスがいる――それはたとえ彼がこの世を去った後も、変わりません。そのことを私たちに確認させ、安心させるために、イエスは一つの約束をされました。それは私たちのもとに聖霊を送ってくださるということです(ヨハネ14・16)。
 聖霊は、かつてイエスが語られたことの真の意味を、私たちに解き明かしてくれます(ヨハネ14・26)。ですから聖霊は、「真理の霊」(ヨハネ14・17)と呼ばれます。この真理とは、しかし、単なる一般的な真理と言うよりも、神の真実・真心・誠などを意味します。この真理の霊によって私たちは、真に生きたものとなります。いのちの息を吹き入れられることによって人間は生きる者となる、と語られるとおりです(創世記2・7)。
 聖霊の大きな特徴の一つ、それは多様性のうちに一致を与えることにあります。私たちがその中に生きる共同体――教会。一人ひとりはそれぞれの善さと意義を持っており、教会を形作っています。その教会が一つであること、それは私たちが目指すべきことであると同時に、イエスの祈りでもあります(ヨハネ17・11,21-23)。この一致の根拠が、まさに聖霊にあります(エフェソ4・4)。それゆえパウロは語ります――「霊による一致を保つように努めなさい」(エフェソ4・3)。同時にまた、私たちは、「霊の導きに従って生きる」(ガラテヤ5・25)ことによって、真の謙遜(ケノーシス)を学ぶことができます。それは私たちが互いに仕え合うことによって、現実のものとなります(ヨハネ13・14参照)。真の「仕合せ」とは、文字通り、「仕え合う」ことを抜きにしてはあり得ません。