2008年7月  4.開かれた共同体の中心に
 ジャン・バニエ氏は、著書『コミュニティー――ゆるしと祝祭の場』の中で、共同体(コミュニティー)について次のように語っています。「真の所属が生きているコミュニティーの基礎的なあり方は、開かれていること、迎え入れること、神、世界、他者、また他のコミュニティーに耳を傾けることである。コミュニティーの生活は、普遍と真理と現実の原理によって活き活きとされ、常に『普遍』へと開かれている。人をゆるし、互いに異なるものや貧しく弱い者たちに開かれているという有り様の上に成り立つ。いわゆるカルトは、恐れから、自らを証し、偽りの安心感を作り出す必要から壁や柵を作る。コミュニティーとは、相違を迎え入れるために、柵を壊すことである」(I−14)。
 ここに記されている、「コミュニティーとは、相違を迎え入れるために、柵を壊すことである」という言葉を、改めて心に留めておきたいと思います。私たちは、ともすると、仲の良い人々、お互いに理解できる人々、あるいはまた、共通の思いを抱く人々とだけ、グループ・群れを作りたがる傾向にあります。しかし、共同体が真の共同体であるためには、お互いの違いを違いとして受け入れ合う心が必要です。画一的でも排他的でもなく、多様性における一致が実現してこそ、真の共同体と言えるでしょう。
 しかし同時にまた、多様性が多様性を保ちながら一つであるためには、何らかの中心が必要です。その中心からすべての人は自分の目指すべき方向に進んでいくのですが、しかし、いつもその中心を見据えながらそれを遂行することが大切です。もしそのことを忘れないならば、たとえ中心から開かれていっても、それは決して無秩序な動きではなく、かえって、共同体が活き活きとしたものとなるために必要なこととなります。
 イエスによって召された12人、彼らはどうだったでしょうか。当時、さまざまな師弟グループがあったと言われます。その中にあって、イエスを中心とするグループと他のグループとの間には、決定的な違いがありました。それは、他のグループの場合は、「弟子が先生を選んだ」のに対して、イエスを中心とするグループでは、先生である「イエスが弟子を選んだ」という点です。もしイエスからの召命を受けなかったならば――イエスが中心にいなかったならば――彼らが一つになることはなかったでしょう。
 弟子たちの間にも、疑心・反目・対立・嫉妬・中傷・軽蔑などがあったかもしれません。例えば、彼らは、自分たちの中で、誰が一番偉いのか、といった議論に熱くなるような人々でした(マルコ9・33-37)。またあるときは、ヤコブとヨハネが、他の10人を出し抜いて、自分たちだけが良い地位を得られるようにとイエスに掛け合いました(マルコ10・35-45)。それに対して残りの10人は怒りますが、彼らもまた似かよったことを考えていたからこそ、怒ったのではないでしょうか。それでも、彼らが一つでありえたのは、彼らの中心にはイエスがいて、そのイエスを見つめながら、そこから開かれていったからだと思うのです。