2008年7月  5.いのちを選ぶ共同体
 日々の生活の中で、私たちは、さまざまな選択・決断をします。現代社会は、しかし、なかなかそれが難しい世の中ではないかとも思います。選択肢が多いために悩んだり、あるいはまた、何か一つのことを選びとるということに不安を覚えたりするからでしょうか。もちろん、一口に選択・決断と言ってもさまざまです。多くの場合は、何を食べようか、何をしようか、どこへ行こうかといったものでしょう。しかしこれらとは別に、もう一つの選択・決断があります。それが、「根本的選択」と呼ばれるものです。それによって、自分の生き方が大きく変わりうるような、選択・決断です。たとえば、どのような職業に就こうか、誰と結婚しようかといったものなどです。この根本的選択による決断は、一人自分だけでなく、周りの人々にも少なからざる影響を与えます。
 「わたしは今日、……、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたはいのちを選べ」(申命記30・19)。これは聖書が語る根本的選択です。「いのちを選ぶ」とは、しかし、具体的にはどういうことなのでしょうか。そもそも「いのち」とは何でしょうか。「神はいのちそのもの」――これは聖書の根本的使信(ししん)の一つです。天地創造の物語からイエス・キリストの物語まで、一貫して聖書は、「いのち」について語っています。いのちそのものである神が、独り子を私たちに与えられました――イエス・キリスト。イエスは神のみことば(ヨハネ1・1-5、一ヨハネ1・1)、そして彼の語ることばは、「霊であり、いのちである」(ヨハネ6・63)と言われます。このイエスのことばが、私たちに根本的な態度決定を迫ります。すなわち、彼のことばに聴き従うか、あるいは無視するかです。
 この世を去る前に、イエスは、私たちに新しい掟を残されました――「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34)。イエスの語る愛は、単なる感情ではありません。たとえ好きでなくても尊敬してなくても、その人を受け容れることを私たちに求めます。この愛は、本質的に共同体的です。なぜなら、愛は、父と子と聖霊の交わりにほかならないからです。愛は無条件に赦すことであり、和解を目指して、互いに仕え合うことです(仕合せ!)。いのちの輝き、いのちのかけがえのなさ、いのちの連帯性――それらの体験は、まさにここにあります。いのちを選ぶとは、それゆえ、互いに愛し合うことと言えるでしょう。
 愛がいのちであることを、ヨハネは次のように語ります――「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである」(ヨハネ3・16、10・15参照)。私たちはこのことばを、私たちの共同体において聴きたい。愛が共同体的であるのと同じように、いのちもまた、共同体的です。ひとつのいのちが喜べば、他のいのちがほほ笑みます。ひとつのいのちが悲しめば、他のいのちが涙します。いのちの源である神、その神の息づかいが、私たちの身体を吹き抜けていきます。