2008年7月 5.いのちを選ぶ共同体 |
![]() 「わたしは今日、……、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたはいのちを選べ」(申命記30・19)。これは聖書が語る根本的選択です。「いのちを選ぶ」とは、しかし、具体的にはどういうことなのでしょうか。そもそも「いのち」とは何でしょうか。「神はいのちそのもの」――これは聖書の根本的使信(ししん)の一つです。天地創造の物語からイエス・キリストの物語まで、一貫して聖書は、「いのち」について語っています。いのちそのものである神が、独り子を私たちに与えられました――イエス・キリスト。イエスは神のみことば(ヨハネ1・1-5、一ヨハネ1・1)、そして彼の語ることばは、「霊であり、いのちである」(ヨハネ6・63)と言われます。このイエスのことばが、私たちに根本的な態度決定を迫ります。すなわち、彼のことばに聴き従うか、あるいは無視するかです。 この世を去る前に、イエスは、私たちに新しい掟を残されました――「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34)。イエスの語る愛は、単なる感情ではありません。たとえ好きでなくても尊敬してなくても、その人を受け容れることを私たちに求めます。この愛は、本質的に共同体的です。なぜなら、愛は、父と子と聖霊の交わりにほかならないからです。愛は無条件に赦すことであり、和解を目指して、互いに仕え合うことです(仕合せ!)。いのちの輝き、いのちのかけがえのなさ、いのちの連帯性――それらの体験は、まさにここにあります。いのちを選ぶとは、それゆえ、互いに愛し合うことと言えるでしょう。 愛がいのちであることを、ヨハネは次のように語ります――「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである」(ヨハネ3・16、10・15参照)。私たちはこのことばを、私たちの共同体において聴きたい。愛が共同体的であるのと同じように、いのちもまた、共同体的です。ひとつのいのちが喜べば、他のいのちがほほ笑みます。ひとつのいのちが悲しめば、他のいのちが涙します。いのちの源である神、その神の息づかいが、私たちの身体を吹き抜けていきます。 |