2008年8月  2.平和のために
 イエスは「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ14・27)と、言われます。創世記の初めから、今日に至るまで、「心を騒がせ、おびえ」深い暗闇に覆われてしまう私たちを、主はすべてご存知です。憎しみや不正義、不平等、分裂、孤独、失望などなど、無秩序な私たちの痛みの只中にも、主はともにおられ「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい。」(マタイ7・7)と待っておられます。
 苦しみは、それ自体では苦しみにすぎません。しかし、キリストのご受難とともに受け入れるとき、ご復活のよろこびが必ず訪れます。「今、このときに」主の平和のうちにあることに、私たちは招かれています。
 いったいどのようにして、その扉は開かれるのでしょうか。イエスがそうなさったように、祈りが、神との親密な一致に開かれる扉です。祈りの中で、私たちは自分には不可能なことを内側から変えていただけます。聖母マリアは、深い祈りの中で神への素朴な信頼のうちに、イエスを世界に差し出したのです。私が祈れないとき、「祈れない」ことをイエスに差し出し、内におられるイエスに祈っていただくとき、主の平和に私が開かれていきます。一人で祈るとき、ともに心を合わせて集い祈るとき、祈れない人々のために私たちが祈り合うとき、愛と平和とよろこびで私たちは満たされます。
 また、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」(ルカ12・49)とあるように、私たちの内にある「赦しがたい思い」を、敢えて「赦す」ことへの招きは、蓋(ふた)をするような生ぬるい仕方ではなく、焼き尽くすほどの痛みに耐える覚悟を問われます。私たちは「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」(マタイ18・22)とあるように、同じ人に同じことを赦し続ける恵みは、祈りなくしてはあり得ません。互いに祈り合い、互いに愛し合い、神のみ国の実現のために平和の道具として働くために、私たちは派遣されています。