2008年8月  3.聖性と宣教への召命
 神は私たち一人ひとりが、聖なるものとして宣教の召命に応えていくよう望んでおられます。私たちは「キリストの体であり、一人一人はその部分です。」(一コリント12・27)ある者は目であり、ある者は耳であり、ある者は手足であり、その違いゆえに理解に苦しむことや、傷つきあうことが起こり苦しみます。しかしながらその違いゆえに、豊かさ、補完、見事なハ−モニーが織りなされます。
 私たちは欠けたものとして、神の子どもとして交わり(コミュニオン)に招かれています。私たちは「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」(一コリント12・13)神からいただいた賜物を、自分や身近な人たちの間だけで占有するのではなく、もっと他者に向けて、また小さくされた人たちに対して開き、分かち合うようにと呼ばれています。けれどもここで起こるパラドックスこそが、神の偉大な神秘です。
 サマリアの女にイエスが「水を飲ませてください」と言われた(ヨハネ4・7)ように、小さくされた人々の中にこそイエスがおられ、私のかたくなな心が開かれ、キリストの内に交わる恵みに与ることに気づかされます。自分ではなかなか乗り越えられない陥りやすいパターンが、他者との交わりの中で自分の限界に直面し、揺さぶられ、どうにもならなくなった時、祈りの内に神に向かいます。「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4・14)自分の傷や限界こそは、神に出会う扉であり、そこで私たちは主の平安とよろこびに出会います。「あなたの罪はゆるされた。行きなさい。」と言われるように、罪から解放された私たちは派遣へと招かれています。