2008年8月 3.聖性と宣教への召命 |
![]() 私たちは欠けたものとして、神の子どもとして交わり(コミュニオン)に招かれています。私たちは「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」(一コリント12・13)神からいただいた賜物を、自分や身近な人たちの間だけで占有するのではなく、もっと他者に向けて、また小さくされた人たちに対して開き、分かち合うようにと呼ばれています。けれどもここで起こるパラドックスこそが、神の偉大な神秘です。 サマリアの女にイエスが「水を飲ませてください」と言われた(ヨハネ4・7)ように、小さくされた人々の中にこそイエスがおられ、私のかたくなな心が開かれ、キリストの内に交わる恵みに与ることに気づかされます。自分ではなかなか乗り越えられない陥りやすいパターンが、他者との交わりの中で自分の限界に直面し、揺さぶられ、どうにもならなくなった時、祈りの内に神に向かいます。「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4・14)自分の傷や限界こそは、神に出会う扉であり、そこで私たちは主の平安とよろこびに出会います。「あなたの罪はゆるされた。行きなさい。」と言われるように、罪から解放された私たちは派遣へと招かれています。 |