2008年8月  4.聖性への識別
 識別とは、「神の大きな望みのうちにある一つの事柄と、私自身の中に 生まれるささやかな望みとを重ね合わせて、神とともに歩む方向を、神とともに決めていくこと」とも言うこともできるでしょう。グァテマラの霊性センターのイエズス会司祭カバルス師は、このことを、「深い望みとの踊り」(※)と表現して、識別について分かりやすく説明しています。カバルス師の言う「踊り」のイメージを膨らませて、神の深い望みと私の深い望みとを重ね合わせて、御心のうちに日々を歩むことを心がけてみましょう。

 日々の生活は、感謝の内に過ごせるような時ばかりではなく、まるでイエスと同じように、ゴルゴタの丘を十字架を背負って上っているように思える時もあります。十字架を担われたイエスの姿に重ね合わせて祈れる時もあれば、自分自身が一体どうしたいのか、神の望みは何であるのか、まったく見えないままに歳月が流れることもあります。
 キリスト者として識別するということは、私がしなければならないことを、神に強要されるのではなく、み国の実現のための神の望みが私の中に生まれてくるような、神の望みと私の望みとの踊りが出現し、私を促すような現れ方で、踊り出す方向が示されるのです。折々に、自分が受けた傷からくる恐れや囚われ、不釣合いな反応などがおきます。しかし、私たちの最も深いところには私自身のいのちの泉(井戸)があり、そこで神は私たちに出会いたいと待っておられます。
 イエスが御父との親密な交わりの中に、夜を徹してただ独りで祈られたとあるように、私たちも独りで、心の沈黙の中で祈ることが勧められています。この「祈り」とは、話すのではなく、むしろ「聴く」ことです。ここで身体の重要性が挙げられます。イエスは生まれつきの盲人の眼に触れ(ヨハネ9・6)、死者に触れ(ルカ8・49)、出血を患っていた女はイエスの着物の房に触れ(ルカ8・43)、癒されます。私の身体が、神との関わりの仲介者であることに気づいているでしょうか?身体は私の存在そのものであり、「聖体祭儀」においても御聖体と御血において私たちは養われています。私たちの身体も心も神に開かれる時、私たちは神の深い平安に留まり、調和のうちに憩います。その時に、二者択一の選びではなく、自らの内にある泉から自分自身のいのちが養われ、豊かなよろこびが満ちあふれます。
 このような、カバルス師の「踊り」のイメージを使って、識別の本質が何であるについて、深めることができるのではないでしょうか。
※C.R.カバルス 著/霊性センターせせらぎ 編 『深い望みとの踊り―霊的成熟のために』より第2部
(夢窓庵より2008年8月29日刊)