2008年9月  3.民族紛争の和解のために
 アフリカの大湖地域の武力紛争と大規模な難民は、およそ次の様な経緯で起きました。
 ルワンダでは、国民の8割強を占めるフツ族は農耕民族でしたが、土地は痩せて多くが貧しい生活をしていました。一方ツチ族は、国民の1割強でしたが、遊牧民族で牛などを所有し比較的豊かでした。ベルギーの植民統治下、ツチ族が君主及び首長など支配層を形成していましたが、社会革命で1962年体制が転覆したため両部族間の社会的立場は逆転しました。報復を恐れたツチ族は近隣諸国に脱出し、ウガンダを拠点に反政府運動を活発化させました。
 1990年ツチ族系難民のルワンダ愛国戦線(RPF)がウガンダよりルワンダに侵攻し、内戦が勃発しました。1993年和平合意に至ったものの、1994年4月ジュベナール・パビャリマナ大統領の乗った飛行機が何者かに撃墜されたことに端を発して、フツ族によるツチ族の大量虐殺(ジェノサイド)が始まりました。この間に、一説では100日間で国民の10人に1人、少なくとも80〜100万人が殺害されたと言われています。200万人を超える人びとが国外脱出をはかり、難民となりました。この一連の紛争や虐殺の陰には、豊かな大国の利権が渦巻いていて、ツチ族もフツ族も豊かな国の豊かな人びとに翻弄されてしまった犠牲者だとも言われています。
 同年7月ツチ族系ルワンダ愛国戦線(RPF)が全土を制圧し、フツ族のビジムングを大統領、ツチ族のカガメを副大統領(現大統領)として新政権が発足し、紛争は終結しました。
 その後について、アフリカ平和再建委員会は次のように報告しています。「難民帰還、再定住、インフラ整備、経済再建などは国際社会の支援により徐々に解決してきた。しかし、瓦解した国家再生のキーワードとして「国民和解」が掲げられたが、虐殺の原因となった民族の相互不信や一度は殺しあった者たちの間の融和についてはほとんど手付かずです。」
 ルワンダでは2001年ガチャチャ(「草の上における正義」の意)という伝統的な裁判制度が採用されました。加害者側による自主的な告白と謝罪を基礎とした裁きの仕組みで、地域住民もこのプロセスに加わることを要請されます。しかし、裁判は遅々として進んでおらず、2007年末までに6万3000件を処理する予定でしたが、2006年8月までに6,267件で判断が下されたに過ぎないのです。
 私たちにできることは、何でしょうか。知ること、心に掛けること、祈ること、そして、もしかかわりを見つけられたら、支援することではないでしょうか。