2008年11月 1.二人の殉教者 |
![]() 殉教者の中で素晴らしい例がたくさんあります。その中から二つを選んで紹介します。レオ税所七右衛門(さいしょしちえもん)が1608年7月22日に洗礼を受けた時に述べた決意の言葉はそれを表しています。「承知しています。しかし、キリストの教えに救いがあると分かったので、だれも、私をそこから引き離すことができないでしょう。」そして殉教の時の言葉も、まったく同じ意味です。「他のことであれば、すべて従うことができますが、救いに関わることならば、受け入れることはできません。」 1623年に、フランシスコ遠山甚太郎も表向きだけでも改宗するように説得されますが、「主君である殿に万事忠誠を尽くす覚悟だが、キリストの法に背くことだけは譲れない」と言います。遠山にとって主君である殿様に仕えることは大変重要なことでした。しかし、キリストに従うことはそれよりも優先して、表向きの改宗すらも受け入れませんでした。 殉教者にとって、神と神の救いはすべてでした。迫害されても、苦しめられても、生命を脅かされても、自分たちがした決意から離れませんでした。 私が大事にしているもの、どうしても失いたくないものは何でしょうか。それを失わないために、どんなものを犠牲にしているでしょうか。 また殉教者は永遠のいのちを神の賜物として非常に大切にしていました。そのため、この世のいのちを犠牲にしても喜んでいました。 殉教者の中には家族そろっていのちを捧げた方もありました。殉教の場で、親は子どもを励ましました。殉教者は神を絶対者として尊敬し、この世の名誉や富よりも大切にして、いのちを捧げ、神への愛を証ししました。そしてご自分たちが確信していたようにパライソに入り、永遠のいのちを得ました。 |
写真: 一八八まるちれすの地を訪ねて (カトリック生活2007年11月号) |