2008年11月  3.家族で殉教して信仰を証しした
 小笠原玄也は細川家に仕えていました。彼は細川家家老のディエゴ加賀山隼人の長女 みや と結婚し、信仰の道に入りました。1614年に徳川幕府が禁教令を出してキリスト教を禁じたとき、主君細川忠興も反キリスト教政策に加わりました。
 今回一緒に列福される京都の殉教者(1619年10月6日)の姿を見た細川忠興は、棄教に応じない加賀山隼人に10月15日小倉で死を命じました。ディエゴは「人生の苦労は力強く耐えることがすべてではない。喜んで耐えたいものだ。」との言葉を妻と娘たちに遺しました。ディエゴの従兄弟とその子も同日、豊後日出で殉教しました。みやの夫小笠原玄也は「転ばない書き物」を忠興に送り転宗しない決意を示しました。 
 それで玄也一家はすべてを失い13年間百姓家に住み、畑を耕しながら貧しい生活を送り辛い状況の中で9人の子を産み育てました。困難にあるからこそ、産んで育てようとしたのです。
 1635年12月11日に捕らえられ、50日間屋敷牢に閉じこめられました。そこから一家は親戚や友人に16通の遺書を送りました。その中で玄也は、憐れみをかけてくださった方々に感謝しています。みやは「女性でありながら、このような殉教の誉れを受けることができるのは、何とありがたいことでしょう。どうしても捨てることができない宗教ですので、このようになりました。」と書いています。また次女くりは母を責めている叔父たちに対して「おじさまたち、お母さまをお叱りになっていますが、お母さま一人がそうさせたのではありません。」と自分たちが望んで生命を捨てる覚悟であるとはっきり言って母親を弁明しています。4人の奉公人も一緒に殉教しました。ここに初代教会と同じように、家族が中心となった身分を超えた信徒の集まりである、「教会」の姿を見ることができます。
 殉教者の場合、親は信仰体験をしっかりと子に伝え、子は信仰によってしっかりと立つ親の背中を見て自分の生き方を学びました。
 今、私達は、家庭で家族と共に、どのように信仰生活を送っているでしょうか。信仰を伝え、信仰を証ししているでしょうか。
画: 三牧樺ず子(画家)
恵みの風に帆をはって(ドン・ボスコ社)より